(所在地)天満1・天満橋1~都島区網島町・中野町1
(撮影日)2014.9.9
国道1号線の大川に架かるこの橋は、昭和5年(1930年)の都市計画に基づき架けられ、当時では国内最大のアーチ橋であった。橋がこの場所に架けられる前は、すこし上流に「澱川橋」が明治35年から架かっていたが、桜宮橋完成後、撤去された。平成18年(2006年)、交通緩和のため新桜宮橋が開通した。
(所在地)天満1・2~都島区網島町
(撮影日)2010.5.6
江戸時代頃は天満川崎と備前島を結ぶ「川崎渡し」があった所で、明治10年(1877年)、有料の橋が架けられ「銭とり橋」と呼ばれていた。明治18年の洪水で橋が流失後、架けられることはなかったが、昭和53年(1978年)、自転車と歩行者専用の斜張橋が架けられた。橋は浪速名橋50選に選ばれている。
(所在地)菅原町・天神橋1~中央区北浜東
橋は文禄3年(1594年)に架けられたのが始まりとされ、新橋と呼ばれていたが、その後、大阪天満宮が橋の管理を行うことになり、「天神橋」と呼ばれるようになった。寛永11年(1634年)に公儀橋となり、浪華三大橋(天満宮・難波橋)の一橋となった。明治18年の洪水で流失したが、明治21年(1888年)、ドイツ製のトラス橋に架け替えられ、現在に至っている。
*南西
*南東
*北東
*北西
(所在地)西天満1~中之島1~中央区北浜1・2
(撮影日)2014.9.14
古くからあったとされる橋で、元々はこの場所により一筋西側の難波橋筋に架かっており、寛文元年(1661年)に幕府の公儀橋となる。明治9年(1876年)、鋼鉄橋に架け替えられ、大正4年(1915年)、市電敷設のため堺筋に新橋として架けられたのが、今の橋で、パリのセーヌ川に架かる名橋を参考にして作られた。当初は「大川橋」と称していたが、後に「難波橋」と改称された。
(所在地)中之島1~西天満1・2
(撮影日)2017.2.4
大正7年(1918年)に中之島に中央公会堂が完成した同時期に木橋として架けられたのが始まりである。橋の北詰付近は古くから天神祭の鉾流神事が行われていた所から、橋名となった。今の橋は昭和4年(1929年)に架けられた橋である。
(所在地)中之島1~中央区北浜2・3
江戸時代に中之島には諸藩の蔵屋敷があり、北浜との利便性を図るために架けられた橋で、橋の近くに栴檀(せんだん)の木があったので橋名になったといわれる。明治18年の洪水で流失したが、大正3年に復興された。昭和60年に架け替えられ、今に至る。
(所在地)中之島1~西天満2
(撮影日)2009.9.8
昭和4年(1929年)に堂島川の河川浄化を目的に建設された可動堰で、「堂島川可動堰」と呼ばれていた。昭和57年(1982年)に改修されて歩行者専用橋となり、水晶橋と命名された。
(所在地)中之島1・2~中央区北浜3・4
(撮影日)2009.10.30
江戸時代、土佐堀川のこの辺りに店があった豪商淀屋が米市場への利便のため中之島に架けた町橋で、その後、淀屋は断絶したが、橋名は残った。明治18年(1885年)の洪水で流失したが、明治44年(1911年)に架け替えられた。大正11年(1922年)からはじまった都市計画により、橋の架け替えが計画されて設計コンペで選出された橋が、昭和10年(1935年)、大江橋と同時に完成した。この橋も大江橋と同様に国の重要文化財である。
(所在地)中之島1・2~堂島浜1・西天満2
(撮影日)2012.11.19
江戸時代の堂島開発の時に架けられた5橋の1橋である。明治42年(1909年)の「北の大火」で焼失したが、翌年には市電敷設のため鋼鉄製の橋が架けられた。昭和5年(1930年)、御堂筋の拡幅ため橋の架け替え工事が開始され、昭和10年(1935年)に完成し、現在に至っている。橋は「浪速の名橋50選」に選ばれており、平成20年(2008年)には「大江橋及び淀屋橋」として国の重要文化財に指定された。
(所在地)中之島2~堂島浜1
堂島川に架かる歩行者専用橋で、平成2年(1990年)の「花と緑の博覧会」に合わせて架橋された。橋の幅は広く、中央部には「そよかぜ」と題された彫刻がある。橋の北側口には堂島米市場の記念碑があり、橋上部には阪神高速の高架がある。