鉄眼禅師茶毘処地 一切経の版木の完成のため全国行脚をおこない、浄財を集めて延宝6年(1678年)に完成させた。天和2年(1682年)この地で53歳没
所在地:日本橋西2-4
撮影日:2008.6.17
創建年代は不明であるが、江戸時代には「廣田の社」と呼ばれ、今より広い境内で「萩の茶屋」という茶屋があった。
所在地:難波中3-10
明治11年(1878年)難波新川といたち川をつなぐ工事中に丸木船(くり船)が発掘された。
所在地:難波中2-10
撮影日:2009.9.17
享保18年(1733年)に幕府直轄の米蔵としてつくられたのが「難波御蔵」で、飢饉や災害時の救援米の貯蔵をしていた。「難波新川」は道頓堀川から米を御蔵に運ぶためにつくられた水路。
27111-35
27111-70
所在地:浪速東3-13(浪速玉姫公園)
撮影日:2009.7.4
1616年大阪城の「時太鼓」を作った渡辺村の平八が「太鼓屋」という屋号を使うことを許された。「太鼓屋又兵衛」の名は皮革などの流通で盛んであった渡辺村の皮革問屋として知られるようになる。
所在地:浪速西2-14
江戸時代、皮革の流通が盛んな時、旧渡辺村と大阪の市中を結んでいた道。
江戸時代中頃、西日本一帯の皮革の中心地だった渡辺村へは、船の場合は大阪湾から木津川に入り十三間川に入ると着けたので、この辺りは海の玄関口となった。