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<所在地>白髪橋交差点東側緑地
<撮影日>2012.5.5
西長堀川に架かっていた橋で、開削完成から明暦元年(1655年)の間に架けられた橋である。土佐藩が自国の「白髪山」のヒノキを売るために、この地に市場を設けたので、橋名になったとされる。
<所在地>問屋橋交差点西側
長堀川が開削された寛永2年(1625年)から明暦元年(1655年)の間に架けられた橋で、橋の周辺のは多くの木材問屋があり、これらの問屋が協力して架橋したので、問屋橋という名になった。
<所在地>西大橋交差点南東側緑地
<撮影日>2012.9.5
西長堀川の完成と共に架かっていた橋で、宇和島藩の蔵屋敷が橋お南側にあったので、橋名となった。橋の北側は新町廓の長堀口番所に通じていた。昭和45年に川の埋め立てと共に撤去されたが、親柱と間柱の各2基は昭和52年に宇和島市に寄贈。
<所在地>西大橋交差点西側
西長堀川の宇和島橋と富田屋橋の中間に架かっていた橋で、現在は「なにわ筋」と「長堀通」の交差点になっている。
<所在地>西大橋交差点南西側緑地
西長堀川に架かった橋で、架橋の詳しい年は不明であるが、明暦3年(1657年)から元禄元年(1688年)に架橋されたとされる。橋名は西長堀川の開発に尽力いた、この地の豪商であった富田屋四郎兵衛の屋号からつけた。間長涯が橋上で天文観測をしていた。
<所在地>西大橋南西側緑地
<撮影日>2009.6.9
この地で「十一屋」という質屋を営みながら、天文暦学者として有名であった麻田剛立に弟子入りして、天文暦を学ぶ、特に、観測機器の考案・改良に優れていた。寛政7年(1795年)幕府からの要請を受け改暦に当たり、寛政9年には寛政暦を完成させた。その後は、この地で幕府天文観測御用となった。
<所在地>四ツ橋交差点東側
<撮影日>2012.4.23
南北に流れていた西横堀川と東西に流れていた南堀川が交差していた所で、4ヵ所に橋が架かっていたのは四ツ橋と呼ばれていた。西横堀川の北の橋は「上繋橋」、南は「下繋橋」で、長堀川の東の橋は「炭屋橋」、西は「吉野屋橋」と言った。昭和39年に西横堀川の埋め立てにより、2橋は撤去あれ、同様に昭和45年には長堀川の2橋も撤去された。