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*忠魂碑・大東亜戦争戦没英霊之碑
忠魂碑は日露戦争の時に、北堀江から出征して戦死した24名の慰霊の碑である。
*指西(しせい)の松碑
銅傳佐兵衛の顕彰碑で、指西とは、西方浄土を目指すという意味である。石碑の周囲には松があったが、空襲で焼失した。
*引導地蔵
石に刻まれた地蔵がキリスト教のマリア様に似ているところからマリア地蔵とも呼ばれる。
*あごなし地蔵
隠岐国の海を漂流していた木像を大阪の鴻池家が安置していたが、安政2年(1855年)当寺で安置するようになった。「あご」から上の病にご利益があるといわれている。
*銅傅家の墓
銅傅佐兵衛は天保13年(1842年)幸町で生まれた。侠客となり、大阪で博徒一家「淡熊一家」の初代会長となった。大正3年73歳で没した。
<所在地>北堀江4-1(西長堀公園)
<撮影日>2012.10.9
江戸時代初期に長堀川が開削され、鰹座橋と玉造橋の両岸に土佐藩蔵屋敷が建ち、鰹節を始めとする海産物と材木などの物産品が、この地で多く陸揚げされるようになり活況を呈した。
<所在地>北堀江3-5(歩道上)
<撮影日>2009.6.9
大正3年(1914年)視覚障害者のために、吉田多市と志岐与市が大阪訓盲院をこの地で設立した。その後、西区内で2度の移転後、大正14年に天王寺区大道に校舎を新築して移転し、(社)天王寺盲学校と改称した。昭和13年に住吉区に移転し、現在に至る。2008年名称が府立視覚支援学校となった。
<所在地>南堀江4-28-14
<撮影日>2012.10.11
駐車場の一角にある土蔵で、詳しいことは不明であるが、南堀江に残る数少ない商家の建物である。
<所在地>南堀江4-28-29
<撮影日>2012.4.23
淡路町の御霊神社行宮(御旅所)で、木津川と道頓堀川の合流点にあたる場所にある。安永9年(1780年)から、約90年間にわたって、本社から行宮まで船渡御を行っていたが、明治期になり廃止され、平成23年に140年ぶりに船渡御を行った。