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(所在地)中之島1-1(東洋陶磁美術館東側)
(撮影日)2009.8.16
豊臣家の武将であった重成は大坂夏の陣で23歳で討死したが、その忠義を称えて碑が建てられた。この地には明治天皇の発願で、豊臣秀吉を祀る豊国神社が明治12年(1879年)に建立された。昭和36年に移転した際、この碑がこの地に残された。
(所在地)堂島浜1-3(中之島ガーデンブリッジ北東詰)
(撮影日)2015.4.12
江戸時代、豪商淀屋の二代目个庵个(こあん)が北浜で自主的な米取引を行っていたが、元禄10年(1697年)、諸事情により堂島新地に移された後も米商人の自主的な取引であったが、享保15年(1730年)、米市場は米の先物取引市場として幕府公認となり、ここの相場が全国の米価格の基準となった。
(所在地)梅田1-3-1(大阪駅前第1ビル屋上北東角)
(撮影日)2013.4.18
この地には古くに丘があり、野狐が住処にしていたので、元禄時代には狐塚と呼ばれた。当社の創始は南北朝時代の応安年間に源融公の十八代目の子孫渡辺十郎が稲荷を祀ったのが始まりで、明治維新後、露天神社の境外社となったが、明治42年の北の大火で焼け残り、焼けずの稲荷と呼ばれた。昭和20年の空襲で被災したが再建され、駅前開発のため現在地に移転した。
(所在地)梅田1-2-2(大阪駅前第2ビル3階屋外北西側)
江戸時代、蜆川(曽根崎川)のほとりに荒れていた祠があり、そこに徳兵衛という修業熱心で、霊験を起こす人が住んでいた。民衆蓮はその徳にあやかるために徳兵衛大明神と呼び崇めた。徳兵衛の死後、再び荒廃したが、駅前第2ビル建設が計画された時に有志によりこの地に再建された。
(所在地)梅田1(梅田新道交差点南西角)
(撮影日)2009.8.3
国道1号と国道2号線・25号線の起終点になっている元標で、江戸時代では高麗橋が街道の起終点であったが、維新後、道路整備が進み大正11年に市役所前に設置され、昭和27年に今の位置に移設された。
(所在地)堂島3-3-5
(撮影日)2012.11.2
日蓮宗の寺で、赤穂浪士四十七士の一人であった矢頭右衛門七教兼(やこうべよもしちのりかね)と、その父の長助教照(ちょうすけのりてる)の墓があることで知られている。又、この寺には曽根崎新地の遊女らが五人が武士に斬り殺された事件の碑があり、この事件は歌舞伎などで上演された。
※矢頭親子の墓
右側が父の長助の墓で、左側は右衛門七の供養墓である。
※右衛門七の顕彰碑
※五代力の碑
(所在地)堂島3(新出入橋東交差点北・南)
明治7年(1874年)に大阪駅が開業し、貨物輸送のために水運が計画され、明治10年に大阪駅から蜆川までの「梅田入堀」ができ、翌年に堂島川までの「堂島堀割」ができた。その時に出入橋が架けられ、明治45年の市電開通に伴い新出入橋ができた。
(所在地)堂島3-1-59(NTT堂島第1ビル西側)
(撮影日)2012.9.2
幕末頃、大阪・神戸の港が開港され、コレラ・ペストなどの外来伝染病の感染が危惧された。又、関東大震災時に伝染病が発生した教訓から、大阪に微生物の研究機関の必要性が説かれ、大阪財界の協力を得て、昭和9年に研究所本館が竣工した。
(所在地)堂島3-1-59(NTT堂島第3ビル北東)
明治22年(1889年)に市制が施行されたが、当初は府知事が市長を兼任し、市役所も府庁舎内にあった。明治31年に初代市長が選出され、翌年には江ノ子島庁舎に移転し、明治45年(1912年)に堂島庁舎に移転、大正10年(1921年)、今の中之島に庁舎を移した。
(所在地)堂島3-1-7(NTT堂島第3ビル南側)
明治天皇が大阪に行幸された場所に建てられた碑で、市内31ヵ所にある碑の一つである。明治天皇は大阪には8回行幸され、明治10年(1877年)、4回目となる行幸で精藍所に臨幸されたのを記念して、この地に建てられた碑である。
※大村藩蔵屋敷跡
肥前国彼杵(そのぎ)郡大村の外様の藩で、約2万8千石の小藩である。堂島川に面し、堂島米市場にも近いこの地に明治維新まで蔵屋敷を構えていた。跡地はNTTテレパークである。