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(所在地)堂島3-1-7(NTT堂島第3ビル南側)
(撮影日)2012.11.2
明治維新後、大阪の経済発展のため実業家として活躍した五代友厚が国産の藍を海外製から守るために、明治9年(1876年)に精藍工場(西朝陽館)を建てた。創業当初は順調であったが、明治11年頃に最盛期を迎えその後、海外産に押され、業績は下降してゆき、明治16年には閉鎖された。
(所在地)堂島1-6-20(堂島アバンサ東側)
(撮影日)2009.12.9
四天王寺を建築するための木材運搬船が、この地に暴風雨で流れ着き、御堂を建てたと伝わる。その頃、この辺りは中洲の島になっており、そこに薬師堂があったので、「御堂のある島」から堂島という地名になった。今の堂は1999年に建てられた。
(所在地)堂島1-2地先
(撮影日)2009.10.1
日本でのビール製造は幕末頃に外国人が行っていた。明治4年(1871年)、大阪通商会社が国産ビール製造を計画したが、実現しなかった。翌年、通商会社の役員であった、澁谷庄三郎が事業を立ち上げ、この地に醸造所を建て「澁谷ビール」の名称で川口居留地などに住む外国人に販売した。
(所在地)曽根崎新地本通り
(撮影日)2015.3.8
近松門左衛門の「曽根崎心中」の舞台になるなど、約300年にわたり武家や町人の歓楽地として栄えた北新地の文化を伝えるため、2003年に新地本通の遊歩道に10点設置された。
(所在地)曽根崎新地1-6
河庄は、近松門左衛門の代表作である「心中天網島」の舞台となった曽根崎新地の茶屋で、紙屋治兵衛と、遊女小春の道中はこの茶屋から「名残の橋づくし」で、蜆川の橋を次々渡り、心中場所となる網島の大長寺で心中する。
(所在地)曽根崎新地1-5-29地先
近松研究家の木谷蓮吟が「心中天網島」の主人公小春治兵衛の涙川で始まる名文で近松を称えた碑文と、蜆川がレリーフとなった銅板である。
(撮影日)2009.7.11
江戸時代、河村瑞賢の河川改修によってできた川で、堂島川の大江橋から分岐して再び堂島川に合流していた。川の南側に堂島新地が、北側には曽根崎新地ができた。又、川で蜆がよくとれたので蜆川とも呼ばれ、他に梅田川、福島川とも呼ばれた。
(所在地)曽根崎新地1-3
蜆川に架かっていた橋で、近松門左衛門の「心中天網島」の一節に出てくる橋である。当時の橋はこの石碑より少し北側にあったので、石碑に南詰とある。橋名の由来としては、蜆川の堤にあった桜の古木が倒れ、橋のように通行ができたので、桜橋となった。蜆橋と同様に蜆川の埋め立てによりなくなった。
(所在地)曽根崎新地1-1(滋賀BK南東壁面)
(撮影日)2014.8.11
江戸時代に河村瑞賢の河川改修によってできた蜆川に架かっていた橋で、明治42年(1909年)に起きた「北の大火」により川は埋め立てられ、橋はなくなった。又、この橋は幕末の頃に、新選組と大坂相撲の力士の乱闘事件の発端となった所でもある。
(所在地)曽根崎2-16-14(曽根崎警察裏)
(撮影日)2014.8.19
昭和初期(2年頃)、曽根崎界隈で、悪疫で亡くなる人や、不測の災難が続出したので、不動寺で祈祷してもらおうと住職の御託宣で「この地に埋められている地蔵をお祀りせよ」とあり、地元の有志で掘り当てお祀りしたら災厄が収まった。その後、諸説の事情で移動する度、地蔵がごてて災厄が起こるので、昭和48年(1973年)に今のこの場所に落ち着いた。