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※川崎東照宮の風輦の神輿を収納していた庫である。風輦とは、天皇専用の車で、屋根に鳳凰の飾りがついている。
※徳川家康が元和2年(1616年)に死去した翌年に、大坂城主の松平忠明が天満川崎に東照宮を造営した。明治維新後、明治6年(1873年)に廃社と決まったが、地元民は再建を願い北野東光院に風輦・灯籠を移したが、再建ならず、昭和9年に大阪天満宮に寄付された。
※御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、福徳神・穀霊神として信仰されていた神である。昭和初めの頃にあった社を再建した。
※大阪天満宮の神職や氏子・崇敬者の祖霊を祀っている。昭和57年建立
※天満宮で最古の石鳥居とされ、安政8年(1779年)に宇賀社の鳥居として建立された。
※亀の池の架かる橋で、愛嬌橋とも呼ばれ、この橋の上で出会った男女は、星の力で結ばれるといわれる。
天満宮の境内の北側にある池で、亀の池とも呼ばれている。古地図ではこの辺りには、明星池・星合池・七夕池が記されているが、江戸時代には、星合池と七夕池は同一となり、その後、明星池はなくなり、星合池のみが残ったため、明星池・七夕池の伝説や行事が星合池の伝説として残っている。古くに、この池では「星辰信仰」がさかんであったことから、七夕の日には祭りが行われる。
※蛭子門にある彫刻で、菊紋に斧が交差している。これは菅原家の家紋で、明治までは大阪天満宮の神紋であったが、維新後、天皇家への配慮から政府通達があり使用をやめたが一部は残像する。
※蛭子門の屋根瓦にも残っているが、菊の葉だけで花ははずされている。
※安政2年(1855年)に建立され、百度石と常夜燈が兼用になっている。
※寛政7年(1795年)に防災のために築かれた石垣であったが、天保8年(1837年)の大塩の平八郎の乱では防ぎきれず類焼した。明治期に北側にも石垣が築かれたため、類焼はない。