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日本書紀・古事記で初代天皇とされる神武天皇が、国家統一をめざし九州の日向から大和に東征した時に、たどり着いた所が「難波之碕」で、その後、橿原宮で即位したという話が「神武東征」である。この顕彰碑は昭和15年(1940年)、紀元2600年を記念して建立された。
うそ(鷽)は実際に存在する冬鳥で、漢字の鷽という字が學門の學という字に似ているので学問の神様とされる菅原道真公と結びつけられ、いつの頃からか「天神様の使い」の鳥とされた。また、道真公が太宰府で祈祷中に蜂が参拝者を襲った時に、鷽の群れが蜂を食べつくし、参拝者を救ったといわれる。大阪天満宮では毎年1月24日・25日に「うそ替え神事」が行われ、去年についた「うそ」を神前で詫び、「まこと」にかえる神事である。
※星合池の畔
「秋思祭 すみしやすらぎ 月にあり」
※後藤夜半の息子で、父親の影響から俳句をはじめ、「ホトトギス」の同人となる。近年は俳句の協会など重職をつとめる。
※大将軍社前
「人形の 宿袮はいづこ 祭船」
※大阪曽根崎生まれの俳人で、若い頃に俳句に興味をもち、会社勤めしながら「ホトトギス」に投句して、高浜虚子に師事した。
※白米稲荷社裏
「船渡御へ 見せて浪速の 土性骨」
※明治35年建立
「夜の明けて 尾花大きく 成れにけり」
※江戸時代前期の俳人で西山宗因の門下となる。この句碑は昭和59年(1984年)に建立され、句の文字は来山の筆である。
※境内西側 「行年や 薬に見たき 梅の花」
※碑の裏面には「蔓延元年(1860年)庚申五月馬田江門人建立」とある。この句は芭蕉研究者の一部から芭蕉の句として疑わしいとされている。
※白米稲荷社西側
「楳咲きて よろこぶ鳥の 気色かな」
※明治26年(1893年)、芭蕉の二百回忌に建立。楳は梅のことで、芭蕉51歳の時の句とされる。
※蛭子門裏
宵のとし 雨ふりける元旦に 一に梅花
「浪華津に さく夜の雨や 花の春」
誹談林初祖梅翁 西山宗因
「なかむとて 花にもいたし 首の骨」 梅翁
慶長10年(1605年)肥後国八代で生まれで、江戸時代前期の連歌師・俳人である。俳諧では梅翁など号し、連歌は宗因と号していた。熊本の加藤家に仕える武士で、主君の命により上京し、連歌師里村昌琢の指導を受けた。その後、お家が改易となったが、里村家の推挙で正保4年(1647年)に大阪天満宮連歌所宗匠となった。明暦3年(1657年)、この地に向栄庵を開いて連歌・俳譜の革新となる「談林派」を率いた。
大坂城主の松平忠明が徳川家康没後の翌年の元和3年(1617年)に天満川崎に東照宮を造営した。明治6年(1873年)に廃社となったが、境内にあった灯篭などが天満宮に移された。灯篭は当初は4基あったが1基は所在不明となり、天満宮には3基が存在し、登龍門東西に1基づつあり、1基は梅花殿南側の中庭にある。
※登竜門西側
※登竜門東側