<所在地>川口3-7(安治川堤防沿)
<撮影日>2012.8.17
河村瑞賢が安治川を開削後、安治川橋が架けられ明治6年には可動式鉄橋となったが、明治18年の豪雨による川の増水で橋に漂流物が滞留し、洪水発生の危険回避のため爆破された。以後、対岸通行のため渡船ができたが、昭和57年に廃止された。
<所在地>川口3-3-17
<撮影日>2012.6.18
この祠の由緒は不詳であるが、玉垣内に楠木の根元があり、そばには以前の楠木のものと思われる朽ちた根元が残っているところから、古くからこの地のご神木として祀られていたと思われる。
富島には、居留地とは別に外人雑居地が政府から認められ、日本人と中国人が住んでいた。中国人は中国料理店や理髪店など営んでおり、当時にしては珍しく大阪の名所でもあった。
<所在地>川口3-5-31(聖マリア幼稚園東側)
外人雑居地であった富島に、フランス副領事レックが明治政府に請願して、明治12年(1879年)完成したカトリック礼拝堂で、赤レンガ造りのゴシック様式を取り入れた洋風建築物であった。
<所在地>川口2-9(安治川堤防沿)
明治3年(1870年)川口運上所内に開設され、神戸まで電信線を架設し、兵庫運上所などの連絡に利用された。この電信線の架設は日本最初であり、大阪電信発祥の地である。
<所在地>川口2-9(安治川堤防沿い)
慶応4年(1868年)大阪港が開港し、外国人居留地や港湾施設などが造られたが、河口港であったため水深が浅く、大型の船が入港できず、多くは神戸港に入港するようになった。明治期後半には天保山(築港)に新しい港が造られ、移転した。
大阪税関の前身となる川口運上所は、慶応3年(1867年)税関事務と外交事務を行うため設置された。慶応4年に五代友厚が初代「外国官判事」に就任し、明治5年(1872年)川口運上所は「大阪税関」と名称が変わり、大正9年に築港に移転した。
*明治天皇聖躅碑