*和光地蔵尊
昭和20年3月13日未明から始まった大阪大空襲で、犠牲になった人のうち、無縁の人をこの場所に埋葬した。
*歴代住職の墓
*了海の墓
寛文2年(1662年)武蔵国で生まれ、9歳で出家し、40歳過ぎに大阪に来て日蓮宗を批難・罵倒する過激な説法を市中で行った。晩年は飢饉で苦しむ民衆に施米をしたりなど社会活動を行った。享保4年(1719年)57歳没。
*灯篭(東山門前一対)
享保4年(1719年)の銘がある。
*忠魂碑・大東亜戦争戦没英霊之碑
忠魂碑は日露戦争の時に、北堀江から出征して戦死した24名の慰霊の碑である。
*指西(しせい)の松碑
銅傳佐兵衛の顕彰碑で、指西とは、西方浄土を目指すという意味である。石碑の周囲には松があったが、空襲で焼失した。
*引導地蔵
石に刻まれた地蔵がキリスト教のマリア様に似ているところからマリア地蔵とも呼ばれる。
*あごなし地蔵
隠岐国の海を漂流していた木像を大阪の鴻池家が安置していたが、安政2年(1855年)当寺で安置するようになった。「あご」から上の病にご利益があるといわれている。
*銅傅家の墓
銅傅佐兵衛は天保13年(1842年)幸町で生まれた。侠客となり、大阪で博徒一家「淡熊一家」の初代会長となった。大正3年73歳で没した。