<所在地>北堀江4-1(西長堀公園)
<撮影日>2012.10.9
江戸時代初期に長堀川が開削され、鰹座橋と玉造橋の両岸に土佐藩蔵屋敷が建ち、鰹節を始めとする海産物と材木などの物産品が、この地で多く陸揚げされるようになり活況を呈した。
<所在地>北堀江3-5(歩道上)
<撮影日>2009.6.9
大正3年(1914年)視覚障害者のために、吉田多市と志岐与市が大阪訓盲院をこの地で設立した。その後、西区内で2度の移転後、大正14年に天王寺区大道に校舎を新築して移転し、(社)天王寺盲学校と改称した。昭和13年に住吉区に移転し、現在に至る。2008年名称が府立視覚支援学校となった。
<所在地>南堀江4-28-14
<撮影日>2012.10.11
駐車場の一角にある土蔵で、詳しいことは不明であるが、南堀江に残る数少ない商家の建物である。
<所在地>南堀江4-28-29
<撮影日>2012.4.23
淡路町の御霊神社行宮(御旅所)で、木津川と道頓堀川の合流点にあたる場所にある。安永9年(1780年)から、約90年間にわたって、本社から行宮まで船渡御を行っていたが、明治期になり廃止され、平成23年に140年ぶりに船渡御を行った。
<所在地>南堀江3-5-7(堀江中学校北東角)
明治5年(1872年)西大組第18区小学校として開校し、明治12年に高薹小学校と改称した。昭和20年(1945年)大阪大空襲で校舎は焼失した。その後、昭和35年に堀江中学校となり、今に至る。この場所は江戸期には紀州藩邸があったといわれる。
<所在地>南堀江3-1(高台橋公園)
藤井藍田は文化13年(1816年)に呉服と藍を商う「綿屋」に生まれ、家業を継いでいたが、田能村竹田から画を学び、廣瀬淡窓から誌文を学んでいた。又、国事にも関心を示し、諸国を巡り、安政3年(1856年)に帰阪して南堀江で私塾「玉生堂」を開いたが討幕派志士らが集まったため、慶応元年(1865年)新撰組に捕らえられ、拷問の末、獄死した。
<所在地>南堀江2-8(南堀江公園)
勧進相撲興行は江戸幕府に禁止されていたが、元禄年間に興行が認められ、大阪では、元禄5年(1692年)この地で最初に興行を行ったとされるが、他の文献では元禄15年(1702年)に堀江橋通での興行が始まりとされている。
<所在地>南堀江1-26-15
明治22年(1889年)大阪電燈(株)(現・関西電力)は、この地に日本で初めて交流発電方式の発電所を完成させた。大正2年、宇治川電気(株)は発電所の隣のレンガ造りの道頓堀変電所を建設した。大正4年に発電所は廃止。昭和23年には発電所も廃止。