(所在地)梅田3-2(梅三小路内)
(撮影日)2016.3.16
明治7年(1874年)5月11日に大阪と神戸を結ぶ官営鉄道の駅舎として開業した。鉄道としては明治5年に開通した東京・横浜間に次いで日本で二番目の鉄道であった。駅は当初の計画では堂島に造る予定であったが、「火を噴く陸蒸気は火事の元になる」という堂島の商人達の猛反対で旧曽根崎村に建設された。駅舎は今の大阪駅より西へ200mの所に建てられた。建物は木造2階建ての赤レンガ貼りで、「梅田ステンショ」と呼ばれ、大阪新名所となった。
(所在地)中津7(十三大橋南東詰)
(撮影日)2013.4.22
高麗橋を起点とし、西宮で西国街道と山陽道の分岐点が終点となる中国街道は江戸時代に整備された街道で、明治時代に行われた淀川の河川改修工事前は中津川という河川があり「十三渡し」が対岸を結んでいた。明治11年(1878年)に有料の十三橋が架けられ渡しは廃止された。この常夜型の道標は大正9年(1920年)に建てられたものである。
(所在地)大淀中4-5-12(勝楽寺)
(撮影日)2009.8.21
寛政5年(1793年)、京町堀で醤油醸造業の和泉屋の庶子として生まれ、後に分家に預けられた。商いのかたわら、狂歌や戯作などに関心をしめし、洒落本や名所図会など色々な著述をしながら土産物店を営んでいたが、天保の改革により閉店した。晩年には「西国三十三ヵ所名所図会」の挿絵や「天保山名所図会」などを刊行した。万延元年(1860年)、冤罪で投獄され、無罪とわかり釈放後、急死した。享年67歳。
(所在地)大淀南3-3-25
創建は不詳であるが、室町時代にはこの地の氏神として存在していたとされ、古くは牛頭天王社、祇園社と称していたが、明治5年(1872年)に現在の社名となり、村社となった。昭和20年の空襲で社殿を焼失したが、昭和52年に再建された。
※八幡社
※王仁神社
※野々宮社
(所在地)大淀中3-1-23
(所在地)2009.8.21
創建は不詳であるが、6世紀に百済から渡米した王仁博士のゆかり地で、近くに王仁博士の石棺があったと伝わる。古くはこの地の氏神であった。天保6年(1835年)に社殿が造営され、昭和16年に改築されたが、戦災で焼失し、昭和47年に再建。
※熊野神社
※社殿復興記念碑
碑文には神社縁起と王仁博士の墓がこの辺りにあったことを記している。
※記念碑
昭和16年に建立されたこの碑には神社の縁起のことが記されている。
(所在地)中津2-8(中津公園内)
明治45年(1912年)に中津町で生まれ、地元中学、高校を卒業後、京都大学文学部に進学した。在学中に演劇の作家や演出を手掛け、卒業後、妻と上京し、放送劇作家などをしていた。昭和15年に文学座の劇作家として活躍し、代表作の「女の一生」の一節が碑に刻んである。昭和21年に34歳で病死。
(所在地)中津2-5-10
(撮影日)2016.3.17
創建年代は不詳であるが、室町時代には存在していたとされ、牛頭天王社・祇園神社と称されていた。明治元年(1868年)の神仏習合禁令により社名禁止となり翌年浪速八十八島の利島から利島神社と改称したが、明治43年(1910年)、この地の旧名から富島神社と改称して今に至る。
※美津社
※御神木
※富島稲荷社
※撫牛
※大楠宮
(所在地)中津2-5-4(光徳寺)
大阪を代表する洋画家で、明治31年(1898年)に光徳寺住職の次男として生まれ、旧制北野中学を卒業後、大正7年(1918年)に東京美術学校西洋画科に入学して藤島武二に師事した。大正12年(1923年)に卒業し、翌年にパリに滞在するが、翌年現地で病気になり病死した。享年30歳。墓は東京都千代田区心法寺にもある。墓標の「倶会一処」は阿弥陀経の教えの一つ。
※生誕地の碑
※祐三の墓
(所在地)中津1-11-11(コンビニ前)
(撮影日)2014.10.11
大阪と能勢を結んでいた能勢街道の起点となっていたのが中津の萩の橋あたりで、能勢街道は物流街道として、又、街道筋にあった寺社の参詣道として人の往来が盛んであった。萩の橋は街道を横切る水路に架かっていた橋で、橋名は近くの豊崎にあった萩の花で有名な東光院の通称「萩の寺」から付けたとされる。又、東光院は電車敷設のため大正3年に豊中市に移転した。
(所在地)豊崎6-6-4
難波長柄豊碕宮が遷都となり、宮跡となったこの地は八本松と呼ばれていたが、正歴年間(990年~995年)に藤原重治がこの地を与えられ祠を建て孝徳天皇をお祀りしたのが創建とされる神社である。明治5年(1872年)村社となり、明治41年(1908年)長柄の村社八幡神社を合祀。足立家の東照宮社を境内に合祀した。明治39年(1964年)社殿が再建された。
※社殿
※鹿島神社
※東照宮・厳島神社
※豊崎えびす
※稲荷神社
※孝徳天皇沓脱石