※南画家の田能村直入が、明治10年に皇族の久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)から直筆の「画神」を賜り、その文字を石碑にした。田能村直入は10歳で田能村竹田の養子となり、南画家として大阪で活躍した。直入は南画家の育成に努め、大阪の堺で画塾を開いたり、京都で京都画学校を設立した。同様の石碑は大分の竹田や岡山の倉敷にもある。
※平安時代後期、漢詩人の藤原敦基・敦光の兄弟が天満宮を参拝した時に詠んだ漢詩が碑文に刻まれている。
南洲近藤の本名は近藤元粋(もときよ)で、号を南洲と名乗っていた。嘉永3年(1850年)に伊予松山で近藤名州の三男として生まれ、明治10年(1877年)、大阪で漢学者として私塾を開き、子弟を教育した。漢詩人としても活躍し「風騒吟社」などを主宰し、学者としても多数の著書を書いた。大正11年(1922年)、南州の没後、所蔵していた膨大な蔵書(約2万冊)は天満宮文庫に寄進された。この碑は大正12年に建てられた。
平安時代にできた思想の言葉で、日本的な精神である「大和魂」と中国の知識である「漢才」の両者を合わせることでできた言葉である。この言葉は菅原道真が記したとされる「菅家遺誠」の中の語であるが、後世の研究で本は菅原道真が記したものではないとされている。この思想は幕末から明治にかけて医学者の影響で広まり、各地の天満宮に建てられた。この碑は嘉永5年(1852年)に建てられ、碑文の揮亳は菅原家後裔の東坊城聰長である。
日本書紀・古事記で初代天皇とされる神武天皇が、国家統一をめざし九州の日向から大和に東征した時に、たどり着いた所が「難波之碕」で、その後、橿原宮で即位したという話が「神武東征」である。この顕彰碑は昭和15年(1940年)、紀元2600年を記念して建立された。
うそ(鷽)は実際に存在する冬鳥で、漢字の鷽という字が學門の學という字に似ているので学問の神様とされる菅原道真公と結びつけられ、いつの頃からか「天神様の使い」の鳥とされた。また、道真公が太宰府で祈祷中に蜂が参拝者を襲った時に、鷽の群れが蜂を食べつくし、参拝者を救ったといわれる。大阪天満宮では毎年1月24日・25日に「うそ替え神事」が行われ、去年についた「うそ」を神前で詫び、「まこと」にかえる神事である。
※星合池の畔
「秋思祭 すみしやすらぎ 月にあり」
※後藤夜半の息子で、父親の影響から俳句をはじめ、「ホトトギス」の同人となる。近年は俳句の協会など重職をつとめる。
※大将軍社前
「人形の 宿袮はいづこ 祭船」
※大阪曽根崎生まれの俳人で、若い頃に俳句に興味をもち、会社勤めしながら「ホトトギス」に投句して、高浜虚子に師事した。
※白米稲荷社裏
「船渡御へ 見せて浪速の 土性骨」
※明治35年建立
「夜の明けて 尾花大きく 成れにけり」
※江戸時代前期の俳人で西山宗因の門下となる。この句碑は昭和59年(1984年)に建立され、句の文字は来山の筆である。