※境内西側 「行年や 薬に見たき 梅の花」
※碑の裏面には「蔓延元年(1860年)庚申五月馬田江門人建立」とある。この句は芭蕉研究者の一部から芭蕉の句として疑わしいとされている。
※白米稲荷社西側
「楳咲きて よろこぶ鳥の 気色かな」
※明治26年(1893年)、芭蕉の二百回忌に建立。楳は梅のことで、芭蕉51歳の時の句とされる。
※蛭子門裏
宵のとし 雨ふりける元旦に 一に梅花
「浪華津に さく夜の雨や 花の春」
誹談林初祖梅翁 西山宗因
「なかむとて 花にもいたし 首の骨」 梅翁
慶長10年(1605年)肥後国八代で生まれで、江戸時代前期の連歌師・俳人である。俳諧では梅翁など号し、連歌は宗因と号していた。熊本の加藤家に仕える武士で、主君の命により上京し、連歌師里村昌琢の指導を受けた。その後、お家が改易となったが、里村家の推挙で正保4年(1647年)に大阪天満宮連歌所宗匠となった。明暦3年(1657年)、この地に向栄庵を開いて連歌・俳譜の革新となる「談林派」を率いた。
大坂城主の松平忠明が徳川家康没後の翌年の元和3年(1617年)に天満川崎に東照宮を造営した。明治6年(1873年)に廃社となったが、境内にあった灯篭などが天満宮に移された。灯篭は当初は4基あったが1基は所在不明となり、天満宮には3基が存在し、登龍門東西に1基づつあり、1基は梅花殿南側の中庭にある。
※登竜門西側
※登竜門東側
※臥牛(がぎゅう)表門西側
昭和14年(1939年)、ビフテキのスエヒロの経営者が翌年の創業30周年を記念して奉納した。別称、スエヒロの石牛像
※青銅牛(駐車場横)
駐車場脇にあり、天満宮で唯一、参拝者が撫でることができる牛像である。この像は昭和30年代に個人が奉納した。
※天保の石牛(住吉社横)
天保11年(1840年)に奉納された石牛像
※古石牛(白米社裏)
この石牛のことは不詳であるが、昆布商と刻まれた台石の上に置かれている。
※本殿と神楽殿を結ぶ高床になった廊下で、「渡殿」と呼ばれる。屋根は銅板葺きの権現造り風で、床下を地面から見上げると梅の花らしき木彫がある。
※表門(大門)の天井にあり、方位に基づいて十二支が描かれている。ただ、西の方角は鶏ではなく、鳳凰になっている。これは、道真公が太宰府に向かう途中、道成寺に立ち寄り、宿泊した翌朝に鶏に出立をせかされたという逸話から鶏は忌み嫌われ、代わりに鳳凰となった。
境内西側の梅花学院1階にあり、菅原道真の障害をジオラマで紹介しており、廊下を歩いて見ていくように展示されている。名称である「菅家廊下」とは、平安時代前期に菅原氏が京都の邸宅で私塾を開いていたが、門下生が増えたため廊下も使って講義をすつようになった。この事から名づけられた名称と思われる。
天満宮には2カ所に文庫があり、第一文庫は境内北西にある。江戸時代中頃、大阪で書籍出版をしていた商人達が初版本を奉納するようになり、その書籍を納めるために蔵が建てられ、運営のため「天満御文庫講」が組織された。後に、住吉大社の御文庫講と一緒になり、「大阪書林御文庫講」が組織された。天保8年(1837年)、大塩平八郎の乱で文庫は焼失したが、市中から書籍を集め、再び文庫を復活させ、現在に至る。
※西側
※東側