27124-18
社号標石
27124-19
27124-20
27124-21
おかげ灯籠
慶安3年(1650年)から60周年期で伊勢神宮へ参詣する「おかげまいり」と言うのが広まり、幕末には「ええじゃないか」というのが広まり、幕末には「ええじゃないか」の流行により、大勢の人々が伊勢神宮に行った。このおかげで灯籠は慶応4年(1868年)に建立されたもので市内に残っているのはこの一基だけである。
27116-100
(所在地)巽中3-18
(撮影日)2009..4.28
明治22年(1889年)の町村制の施行により、大地村・四条村・矢柄村・西足代村・伊賀ヶ村の五ヶ村が合併することになり、村名はこの地が大阪城から見て巽(東南)の方向になるので、「巽村」と命名あsれた。昭和30年に大阪市と合併して役場は廃止された。
27116-99
(所在地)巽西1-9
(撮影日)2011.3.14
治水対策のための平野川分水路は昭和4年(1929年)から開削工事を始め、昭和33年に完成したが、改修工事は昭和27年から12年間かけて完成した。
27116-97
(所在地)巽西3-9
(撮影日)2009.4.28
大地村の西端にあった神社で、「印地之宮」又は「西之宮」と呼ばれていたが、明治40年に巽神社に合祀された。神社の歴史は古く、日本書紀の仁徳13年「横野提を築く」との記述から、提の守護のため祀られた神社と思われている。
27116-98
27116-11
さし石-2
27102-107
教訓の墓
大笠吉五郎氏の墓で、墓石の左側面に暗号めいた文字が刻んである。意味は「人には辛抱が一番(第一)」文字を上から重ねると「金」という字になり、子孫に対しての教えとしている。
(所在地)東野田町3-2
(撮影日)2011.12.15
江戸時代頃、大阪の7ヶ所の墓地を供養のために巡る「七墓巡り」の墓地の一つが浦生墓地であった。この行事は、明治の初め頃まで続いていたが、墓地の移転などで消滅した。現在でも残っている墓地は、浦生と南浜の2ヶ所だけである。