<所在地>千代崎1-1(松島公園少年広場南側)
<撮影日>2012.3.14
古くは、淀川などの河口には難波八十島と呼ばれるほど砂島が点在しており、九条島もその一つであった。元は葦島と呼ばれていたが、江戸初期に香西皙雲により新田開発され、儒学者の林羅山が「衢壌島(くじょうじま)」と命名した。室町時代から始まった朝鮮通信使は一時途絶えていたが、江戸幕府になり、李氏朝鮮との友好親善のため、慶長12年(1607年)から将軍の代替わりの時などに12回派遣され、九条島に到着した時には大坂はお祭り騒ぎになった。
<所在地>千代崎1-1(松島公園少年広場東側)
川口居留地と松島を結んでいた戒島渡しが、明治3年(1870年)廃止され、尻無川に木橋の梅本橋が架けられた。橋名は橋の西詰にあたる梅本町からつけられた。大正4年(1915年)市電敷設のため架け替えられ、昭和27年頃、運河埋め立てで撤去された。
木津川と尻無川の合流点である当時は寺島と呼ばれていたが、町名の命名の際、樹齢三百年の「えびす松」という名松があったので、「松島」と名づけた。明治の初めに川口居留地が造成され、松島遊郭ができ、明治2年に大きな反橋の松島橋が架けられたが、明治18年大洪水で橋は流失した。
<所在地>川口3-7(安治川堤防沿)
<撮影日>2012.8.17
河村瑞賢が安治川を開削後、安治川橋が架けられ明治6年には可動式鉄橋となったが、明治18年の豪雨による川の増水で橋に漂流物が滞留し、洪水発生の危険回避のため爆破された。以後、対岸通行のため渡船ができたが、昭和57年に廃止された。
富島には、居留地とは別に外人雑居地が政府から認められ、日本人と中国人が住んでいた。中国人は中国料理店や理髪店など営んでおり、当時にしては珍しく大阪の名所でもあった。
<所在地>川口3-5-31(聖マリア幼稚園東側)
<撮影日>2012.6.18
外人雑居地であった富島に、フランス副領事レックが明治政府に請願して、明治12年(1879年)完成したカトリック礼拝堂で、赤レンガ造りのゴシック様式を取り入れた洋風建築物であった。
<所在地>川口2-9(安治川堤防沿)
明治3年(1870年)川口運上所内に開設され、神戸まで電信線を架設し、兵庫運上所などの連絡に利用された。この電信線の架設は日本最初であり、大阪電信発祥の地である。
<所在地>川口2-9(安治川堤防沿い)
慶応4年(1868年)大阪港が開港し、外国人居留地や港湾施設などが造られたが、河口港であったため水深が浅く、大型の船が入港できず、多くは神戸港に入港するようになった。明治期後半には天保山(築港)に新しい港が造られ、移転した。