(所在地)末広町1-5
(撮影日)2013.4.16
元和元年(1616年)、柏原船の船株主の三田浄久が、甥を僧侶して開創したのが始まりである。加藤清正との関わりから「清正公」の信仰で知られている。昭和20年の大阪大空襲で寺は全焼したが、昭和40年に再建された。
(所在地)与力町1-7
(撮影日)2017.9.13
天文23年(1554年)、大坂豊津にて臨済宗大徳寺派に寺として開創したが、慶長2年(1597年)に天満東寺町(現在地)に移転して曹洞宗の寺となった。昭和20年の大阪大空襲で寺は全焼したが、昭和45年、鉄筋コンクリート造りの寺として再建された。境内墓地には感化院の創設者池上雪枝の墓がある。
(所在地)兎我野町14-3
(撮影日)2017.3.4
文禄年間(1592年~1596年)、日蓮宗日政上人がこの地に開創したのが始まりで、江戸期に三度の火災に遭ったが、その度、再建された。昭和20年の大阪大空襲で経蔵以外は焼失したが、再び、再建された。平成7年の阪神・淡路大震災でも大きな被害を受けたが再建され、今に至っている。境内の墓には新選組槍術指南役谷萬太郎、近藤勇の養子であった谷周平、二人の兄である谷三十郎の谷三兄弟の墓がある。
(所在地)同心1-1-5
(撮影日)2013.3.20
浄土宗の天誉滴翠(てんよてきすい)上人が天正11年(1583年)、大坂松江町に創建した寺院で、京都知恩院二十八世浩誉聡補上人から「専念寺」という寺号を授かった。元和2年(1616年)、徳川の命により、天満東寺町(現在地)に移転した。江戸期、三度の火災にあい、そのつど再建を果たしたが、昭和20年(1945年)、大阪大空襲の時に山門以外焼失した。昭和50年(1975年)に本堂が再建され、塔屋には「三心(さんじん)の鐘」という音色の異なる三つの鐘があり、大晦日には一般に開放している。
(所在地)大淀南3-3-25
(撮影日)2009.8.21
創建は不詳であるが、室町時代にはこの地の氏神として存在していたとされ、古くは牛頭天王社、祇園社と称していたが、明治5年(1872年)に現在の社名となり、村社となった。昭和20年の空襲で社殿を焼失したが、昭和52年に再建された。
※八幡社
※王仁神社
※野々宮社
(所在地)大淀中3-1-23
(所在地)2009.8.21
創建は不詳であるが、6世紀に百済から渡米した王仁博士のゆかり地で、近くに王仁博士の石棺があったと伝わる。古くはこの地の氏神であった。天保6年(1835年)に社殿が造営され、昭和16年に改築されたが、戦災で焼失し、昭和47年に再建。
※熊野神社
※社殿復興記念碑
碑文には神社縁起と王仁博士の墓がこの辺りにあったことを記している。
※記念碑
昭和16年に建立されたこの碑には神社の縁起のことが記されている。
(所在地)中津2-5-10
(撮影日)2016.3.17
創建年代は不詳であるが、室町時代には存在していたとされ、牛頭天王社・祇園神社と称されていた。明治元年(1868年)の神仏習合禁令により社名禁止となり翌年浪速八十八島の利島から利島神社と改称したが、明治43年(1910年)、この地の旧名から富島神社と改称して今に至る。
※美津社
※御神木
※富島稲荷社
※撫牛
※大楠宮
(所在地)豊崎2-3-23
(撮影日)2012.9.19
天平19年(747年)聖武天皇の勅願により行基が創建した寺で、無本寺と称していたが、天治元年(1124年)僧良忍が復興させ、融通念仏寺となったが荒廃し、建永元年(1206年)法然上人が再興して、寺名を源光寺と改めて浄土宗の寺となった。
(所在地)豊崎1-2
(撮影日)2012.10.3
この墓地の歴史は古く「大坂七墓」の一つで「濱墓所」と呼ばれていた。昔はこの地では人が亡くなると淀川に放棄していたが、天平7年(735年)、行基がその光景を見て民に火葬の方法を教え、天平19年(747年)に我が国で最初の墓地を作った。その後、墓地の荒廃に伴い、大正14年に豊崎町から大阪市へ墓地管理が移された、又、墓地の北側にも南浜墓地があり、何らかの事情で分断されたものと思われる。
※墓地入口
(所在地)本庄西3-13-5
今から700年ほど前の室町時代に創建されたといわれる寺で、その後、約450年前に本願寺とのつながりにより浄土真宗本願寺派の寺となった。明治期の淀川改修前は広大な境内で、さつきが多く植えられ、樹齢300年のさつきもあり、大阪のさつきの名所で「さつき寺」とも呼ばれた。