(所在地)堂島3-1-59(NTT堂島第1ビル西側)
(撮影日)2012.9.2
幕末頃、大阪・神戸の港が開港され、コレラ・ペストなどの外来伝染病の感染が危惧された。又、関東大震災時に伝染病が発生した教訓から、大阪に微生物の研究機関の必要性が説かれ、大阪財界の協力を得て、昭和9年に研究所本館が竣工した。
(所在地)堂島3-1-59(NTT堂島第3ビル北東)
(撮影日)2012.11.2
明治22年(1889年)に市制が施行されたが、当初は府知事が市長を兼任し、市役所も府庁舎内にあった。明治31年に初代市長が選出され、翌年には江ノ子島庁舎に移転し、明治45年(1912年)に堂島庁舎に移転、大正10年(1921年)、今の中之島に庁舎を移した。
(所在地)堂島3-1-7(NTT堂島第3ビル南側)
明治天皇が大阪に行幸された場所に建てられた碑で、市内31ヵ所にある碑の一つである。明治天皇は大阪には8回行幸され、明治10年(1877年)、4回目となる行幸で精藍所に臨幸されたのを記念して、この地に建てられた碑である。
※大村藩蔵屋敷跡
肥前国彼杵(そのぎ)郡大村の外様の藩で、約2万8千石の小藩である。堂島川に面し、堂島米市場にも近いこの地に明治維新まで蔵屋敷を構えていた。跡地はNTTテレパークである。
明治維新後、大阪の経済発展のため実業家として活躍した五代友厚が国産の藍を海外製から守るために、明治9年(1876年)に精藍工場(西朝陽館)を建てた。創業当初は順調であったが、明治11年頃に最盛期を迎えその後、海外産に押され、業績は下降してゆき、明治16年には閉鎖された。
(所在地)堂島1-2地先
(撮影日)2009.10.1
日本でのビール製造は幕末頃に外国人が行っていた。明治4年(1871年)、大阪通商会社が国産ビール製造を計画したが、実現しなかった。翌年、通商会社の役員であった、澁谷庄三郎が事業を立ち上げ、この地に醸造所を建て「澁谷ビール」の名称で川口居留地などに住む外国人に販売した。
(所在地)曽根崎新地本通り
(撮影日)2015.3.8
近松門左衛門の「曽根崎心中」の舞台になるなど、約300年にわたり武家や町人の歓楽地として栄えた北新地の文化を伝えるため、2003年に新地本通の遊歩道に10点設置された。
(所在地)曽根崎新地1-6
(撮影日)2009.12.9
河庄は、近松門左衛門の代表作である「心中天網島」の舞台となった曽根崎新地の茶屋で、紙屋治兵衛と、遊女小春の道中はこの茶屋から「名残の橋づくし」で、蜆川の橋を次々渡り、心中場所となる網島の大長寺で心中する。
(所在地)曽根崎新地1-5-29地先
近松研究家の木谷蓮吟が「心中天網島」の主人公小春治兵衛の涙川で始まる名文で近松を称えた碑文と、蜆川がレリーフとなった銅板である。
(撮影日)2009.7.11
江戸時代、河村瑞賢の河川改修によってできた川で、堂島川の大江橋から分岐して再び堂島川に合流していた。川の南側に堂島新地が、北側には曽根崎新地ができた。又、川で蜆がよくとれたので蜆川とも呼ばれ、他に梅田川、福島川とも呼ばれた。
(所在地)曽根崎新地1-3
蜆川に架かっていた橋で、近松門左衛門の「心中天網島」の一節に出てくる橋である。当時の橋はこの石碑より少し北側にあったので、石碑に南詰とある。橋名の由来としては、蜆川の堤にあった桜の古木が倒れ、橋のように通行ができたので、桜橋となった。蜆橋と同様に蜆川の埋め立てによりなくなった。