(所在地)梅田3-2(梅三小路内)
(撮影日)2016.3.16
明治7年(1874年)5月11日に大阪と神戸を結ぶ官営鉄道の駅舎として開業した。鉄道としては明治5年に開通した東京・横浜間に次いで日本で二番目の鉄道であった。駅は当初の計画では堂島に造る予定であったが、「火を噴く陸蒸気は火事の元になる」という堂島の商人達の猛反対で旧曽根崎村に建設された。駅舎は今の大阪駅より西へ200mの所に建てられた。建物は木造2階建ての赤レンガ貼りで、「梅田ステンショ」と呼ばれ、大阪新名所となった。
(所在地)天神橋2-1-34
(撮影日)2009.4.6
平成18年(2006年)に開席した上方落語の寄席で、落語・漫才などが行われている。用地は大阪天満宮の無償提供で、建物は寄付金で賄われた。
※境内の北側にある門で、直進すると亀の池にあたるため、この門名になった。
※天神橋と同様の歴史を歩んできた橋で、橋名飾板は天神橋と同じで日本製の鋳鉄でできている。この2橋の橋名板が、ここにあるのかは不明である。
※川崎東照宮の風輦の神輿を収納していた庫である。風輦とは、天皇専用の車で、屋根に鳳凰の飾りがついている。
※亀の池の架かる橋で、愛嬌橋とも呼ばれ、この橋の上で出会った男女は、星の力で結ばれるといわれる。
※蛭子門にある彫刻で、菊紋に斧が交差している。これは菅原家の家紋で、明治までは大阪天満宮の神紋であったが、維新後、天皇家への配慮から政府通達があり使用をやめたが一部は残像する。
※蛭子門の屋根瓦にも残っているが、菊の葉だけで花ははずされている。
※寛政7年(1795年)に防災のために築かれた石垣であったが、天保8年(1837年)の大塩の平八郎の乱では防ぎきれず類焼した。明治期に北側にも石垣が築かれたため、類焼はない。
※明治35年(1902年)、参集殿の屋根瓦が葺かれた時の鬼瓦で、明治43年(1910年)、建物が新調された時もこの鬼瓦は使われた。昭和52年、道真公御神退1075年の時に屋根を銅板に葺き替えたため、下され、昭和62年にこの場所に置かれるようになった。
※江戸時代、日本で算が盛んとなり、和算と呼ばれ、和算の問題や解き方などを研究する和算学者も多数現れ、和流を形成するようになった。宅間流もその一派で宅間能清(よしきよ)を祖とし、弟子の鎌田俊清の「宅間流円理」が有名である。この算額は文化5年(1808年)に奉納された額であったが、平成10年(1998年)に新調し、神楽殿に奉納された。