<所在地>靭本町1(靭公園内)
<撮影日>2009.6.18
明治34年(1901年)土佐堀で生まれ、父親の転勤のため東京・三重と変わるが、再び大阪に戻り旧制北野中学時代は靭に住んでいた。東京帝大在学中の大正14年(1925年)に発表した「檸檬」一節が石碑に刻まれている。
<所在地>靭本町2-1(靭公園内)
元年8年(1622年)生魚以外の海産物の干物などを扱う市場として、淀屋などの商人が開いた。塩干物や農産物の肥料として干鰯(ほしか)を取引していた。昭和6年(1931年)大阪市中央卸売市場の開場により閉鎖された。
靭一帯は江戸時代には海産物を扱う市場があり、その商人達が、寛永元年(1624年)海部堀川を開削して、阿波堀川とつなぎ、川の屈折した所を永代浜と称して荷揚げ場とした。この石柱はもと大和田銀行の建物に使われていたものである。
樹齢300年余年の楠を御神木としてお祀りしている、神社で、鎮座する前は御霊神社の元宮があったが、文禄3年(1594年)津和野藩主の寄進により、御霊神社は淡路町に還座した。
*御神木
樹齢300余年の楠で、戦前には天然記念物に指定されていたが、戦災で取り消された。
*御霊宮旧跡碑
還座する前までこの地に御霊神社の元宮があった。