天満宮の境内の北側にある池で、亀の池とも呼ばれている。古地図ではこの辺りには、明星池・星合池・七夕池が記されているが、江戸時代には、星合池と七夕池は同一となり、その後、明星池はなくなり、星合池のみが残ったため、明星池・七夕池の伝説や行事が星合池の伝説として残っている。古くに、この池では「星辰信仰」がさかんであったことから、七夕の日には祭りが行われる。
※蛭子門にある彫刻で、菊紋に斧が交差している。これは菅原家の家紋で、明治までは大阪天満宮の神紋であったが、維新後、天皇家への配慮から政府通達があり使用をやめたが一部は残像する。
※蛭子門の屋根瓦にも残っているが、菊の葉だけで花ははずされている。
※安政2年(1855年)に建立され、百度石と常夜燈が兼用になっている。
※寛政7年(1795年)に防災のために築かれた石垣であったが、天保8年(1837年)の大塩の平八郎の乱では防ぎきれず類焼した。明治期に北側にも石垣が築かれたため、類焼はない。
※関西空港の開港記念行事として、オーストラリア・ブリスベンで天神祭が行われたのを記念して碑が建立された。ブリスベンにも同じ碑がある。
※さざれ石とは小石が長い年月をかけて岩の塊のようになった石のことで、国家「君が代」の歌詞にもなっている。歌詞の由来となっているさざれ石は岐阜県揖斐川町春日村の石で、この石も春日村の石である。この石は平成27年に奉納された。
※宝暦年間(1751年~1764年)に長崎の商人であった播磨屋清兵衛がガラス製造方法を長崎で学び、大阪で始めたとされる。明治期にはガラス産業が盛んとなり、与力町界隈に多くのガラス工場ができたが、時流にかてず衰退してゆき、界隈のガラス工場が一部を残してなくなった。この碑はガラス組合が昭和54年に建立した。
※蛭子門の前にあるえびす様の石像で、天満宮のえびす様に御神酒をお供えしたら、えびす様の顔が赤くなったという故事にちなんで作られた。
※明治35年(1902年)、参集殿の屋根瓦が葺かれた時の鬼瓦で、明治43年(1910年)、建物が新調された時もこの鬼瓦は使われた。昭和52年、道真公御神退1075年の時に屋根を銅板に葺き替えたため、下され、昭和62年にこの場所に置かれるようになった。
※江戸時代、日本で算が盛んとなり、和算と呼ばれ、和算の問題や解き方などを研究する和算学者も多数現れ、和流を形成するようになった。宅間流もその一派で宅間能清(よしきよ)を祖とし、弟子の鎌田俊清の「宅間流円理」が有名である。この算額は文化5年(1808年)に奉納された額であったが、平成10年(1998年)に新調し、神楽殿に奉納された。