<所在地>西大橋交差点南西側緑地
<撮影日>2012.5.5
西長堀川に架かった橋で、架橋の詳しい年は不明であるが、明暦3年(1657年)から元禄元年(1688年)に架橋されたとされる。橋名は西長堀川の開発に尽力いた、この地の豪商であった富田屋四郎兵衛の屋号からつけた。間長涯が橋上で天文観測をしていた。
<所在地>西大橋南西側緑地
<撮影日>2009.6.9
この地で「十一屋」という質屋を営みながら、天文暦学者として有名であった麻田剛立に弟子入りして、天文暦を学ぶ、特に、観測機器の考案・改良に優れていた。寛政7年(1795年)幕府からの要請を受け改暦に当たり、寛政9年には寛政暦を完成させた。その後は、この地で幕府天文観測御用となった。
<所在地>四ツ橋交差点東側
<撮影日>2012.4.23
南北に流れていた西横堀川と東西に流れていた南堀川が交差していた所で、4ヵ所に橋が架かっていたのは四ツ橋と呼ばれていた。西横堀川の北の橋は「上繋橋」、南は「下繋橋」で、長堀川の東の橋は「炭屋橋」、西は「吉野屋橋」と言った。昭和39年に西横堀川の埋め立てにより、2橋は撤去あれ、同様に昭和45年には長堀川の2橋も撤去された。
<所在地>新町2-6(新町南公園)
明治21年(1888年)角藤定憲は「日本改良演劇一座」として、政治批判を込めた演劇を新町座で上演した。この改良演劇は自由民権運動を広めるための壮士芝居であり、又、旧演劇に対しての新興演劇でもあった。
<撮影日>2009.9.18
天正11年(1583年)秀吉が大坂城の築城を開始し、建築資材などの置き場が各所に設けられたが、この地は砂などの置き場となり、同時に城普請のための人々も集まったので、麺類の店が開業した。古文書による麺類店発祥の地とされている。
<所在地>新町1-17
万延元年(1860年)歌舞伎役者三代目中村翫雀と、新町廓の揚屋・扇屋のひとり娘の妙との間に生まれ、後に歌舞伎役者となり「心中天網島」河庄の治兵衛役で、上方歌舞伎の人気役者となった。
<所在地>新町1-15(新町北公園)
<撮影日>2010.3.19
詩人で児童文学者でもあった百田宗治は明治26年(1893年)この地で生まれ、新町橋辺りで少年時代を過ごした。碑には昭和2年に発表した詩集「何もない庭」の詩が刻んである。他にも、童謡「どこかで春が」の作詩者としても知られている。
『千代女の句』
(だま)されて 来て(誠)なり はつ桜 *()の部分は欠損してない
『芭蕉の句』所在不明
春の夜は 桜にあけて しまいけり
<撮影日>2009.5.29
加賀千代女の句碑で、廓内の九軒町の西橋に建てられていたが、戦時中に所在不明となり、その後、碑の上部が破損した状態で発見された。又、町の東端には芭蕉の句碑もあったが、所在不明である。