<所在地>新町1-15(新町北公園)
<撮影日>2009.5.29
新町廓への客足が落ち始めたため、扇屋四郎兵衛の発案により文政2年(1819年)に桜を植え始め、特に九軒町の桜堤は夜桜見物として有名になり、昭和初期まで続いた。堤沿いにあった吉田屋は井原西鶴の「好色一代男」、近松門左衛門「夕霧阿波鳴渡」に登場した揚屋で、戦前前まであった。
<所在地>新町1-3-21
<撮影日>2012.5.5
江戸時代初期に新町遊郭は幕府公認の遊郭つぃて始まり、新町橋は寛文12年(1672年)に西横堀川に架けられた橋である。四方を堀で囲われた廓に入るための橋でもあった。
<所在地>新町1(阪神高速高架下)
立売堀・新町・西長堀の3町の地区連合会である西六地区が、昭和32年(1957年)戦争犠牲者の慰霊のため、新町の光禅寺境内に建立した。その後、西六福祉会館前に移転し、又、今の場所に移転。
<所在地>立売堀6-7
<撮影日>2012.3.14
木津川と百間堀川に挟まれた中州状の島のようであった江之子島と百間堀川に架かっていた橋で、北には子島橋が架かっており、2橋の名から江之子島となっている。
<所在地>立売堀4-2(薩摩堀公園)
阿波堀川と百間堀川を結ぶために寛永5年(1628年)薩摩屋仁兵衛が開削を始め、2年後の寛永7年に完成させた。この堀川は当初「阿波座新堀」と呼ばれていたが、開削者の名からと、薩摩藩下屋敷に物資の運搬がされていたので、「薩摩堀川」となった。
<所在地>立売堀4-10
明治5年(1872年)西大組第10小学校として、廣教寺慶大に創立され、明治12年に公立広教小学校と改称された。その後、戦災により廃校となったが、昭和32年に地元の要望で、明治・広教・靭の3校が合併して明治小学校となった。
<所在地>立売堀1-4-1(花王大阪事業所ビル前)
伊達氏が掘った川を元名6年(1620年)に西横堀川と木津川・百聞堀川と繋ぐために開削を始め、寛永3年(1626年)に完成した。当初は「伊達(だて)堀」と呼ばれ、それが「いたちぼり」となり、後に材木の立売りが始まり「立売堀」と漢字表記されるようになった。立売堀川は昭和31年に埋め立てられた。
<所在地>立売堀2-2(阿波座南公園)
<撮影日>2011.11.14
商業で発展していた大阪に商業学校が無かったため明治13年(1880年)五代友厚によって、この地にあった町会所を校舎として、開設されてあ商業教育機関である。翌年に大阪府に移管され、江戸堀に移転した。後の、大阪市大・大商大・大阪商業の元となる。