<所在地>靭本町2-1(靭公園内)
<撮影日>2009.6.18
靭一帯は江戸時代には海産物を扱う市場があり、その商人達が、寛永元年(1624年)海部堀川を開削して、阿波堀川とつなぎ、川の屈折した所を永代浜と称して荷揚げ場とした。この石柱はもと大和田銀行の建物に使われていたものである。
*御霊宮旧跡碑
還座する前までこの地に御霊神社の元宮があった。
<所在地>靭本町1-19-23(靭パークサイドコーポ)
<撮影日>2012.5.5
明治6年(1873年)西大組第六小学校として開校し、のちに靭東小学校と改称した。明治11年には靭西小学校と合併して、靭小学校となる。昭和17年に西船場小学校に編入され廃校となった。光榮記念碑は昭和4年に昭和天皇が名代として甘露寺侍従を靭に遣わされたのを記念として建立した碑である。
<所在地>京町堀1-2(京町堀公園)
西横堀川と百聞堀川を結んでいた5本の堀川の一つで、元和3年(1617年)京都伏見京町から移り住んだ人達によって開削された。昭和30年(1955年)には防潮提工事のため埋め立てられた。靭公園の北側は川があった所である。
<所在地>京町堀2-11(江戸堀中公園)
<撮影日>2009.8.16
天明3年(1783年)丹後で生まれ、22歳の時に江戸と京都で蘭学や医学を学び、文化14年(1817年)35歳で大坂に移り、医院を開業したが、妻まかせで、橋本宗吉の絲漢堂で学びながら、自身も思々斎塾を開塾し、塾から緒方洪庵などを輩出した。当時、坂本町と呼ばれたこの地に最後まで居住した。