(所在地)中之島5-3-68(京阪中之島駅ロイヤルホテル前)
(撮影日)2015.4.12
江戸時代、堂島で米取引が始まると、諸藩の米や物産が大阪に集まる様になり、特に中之島は船運が便利なため、諸藩の蔵屋敷が並んだ。明治4年(1871年)、廃藩置県により藩は廃止され、蔵屋敷も政府所有となり、民間に払い下げとなった。
(所在地)中之島5-3-68(ロイヤルホテル前)
(撮影日)2010.6.6
明治6年(1873年)、後藤象二郎ら士族らが中心となり、旧大名の上杉・蜂須賀などの他に、大阪商人の鴻池などの出資で蓬莱社を設立し、多角的に事業を始めた。この地で製糖業と製紙業を明治8年から開始したが、うまくいかず明治9年には建物・設備など一切を譲渡、その後もこの地での製糖業は成功しなかった。
※明治天皇聖聾躅碑
明治10年に明治天皇が、この製造工業を行幸されたのを記念して建てられた石碑
(撮影日)2013.5.6
讃岐高松藩12万石の蔵屋敷があった場所で、江戸時代には、中之島には多くの蔵屋敷があった。この屋敷では慈雲尊者が生まれ、又、屋敷神であった金刀比羅宮は庶民に人気があった。明治期に民有地となり、昭和40年にホテルが開業した。
(所在地)中之島5-3
享保3年(1718年)、この地にあった高松藩蔵屋敷で生まれ、13歳で法楽寺(東住吉区)にて出家し、住職から梵語を学んだ。18歳の時に、伊藤東涯から儒学を学び、元文4年(1739年)、法楽寺の住職となったが、2年後、住職を同門に譲り、信州の寺で2年間の禅修業後、帰阪して「正方律」という僧侶としてあるべき姿を説いた。宝暦8年(1758年)から生駒山中の草庵で梵語研究に没頭し、「梵学律梁」を著した。文化元年(1804年)、87歳で没した。
(所在地)中之島4(中之島遊歩道)(撮影日)2014.9.2大倉財閥の創業者の大倉喜八郎が、明治40年(1907年)に創立した学校で、昭和23年(1948年)に、関西実業高校と合併し、関西大倉高校となる。昭和38年に茨木市に移転した。
(所在地)中之島4(中之島遊歩道)
(撮影日)2014.9.2
明治7年(1874年)、教員伝習所として南御堂で開校したが、翌年に大阪府師範学校と改称された。明治10年、一時、興正寺に移転したが、同年、この地の久留米藩蔵屋敷跡に校舎を新築し移った。翌年、上本町の官立大阪師範学校の廃校に伴い移転し、この地の校舎は常安町校舎として使われていた。明治14年(1881年)、再び本校舎となり、明治34年まで使用していた。
(所在地)中之島3(土佐堀川沿いの緑道)
(撮影日)2012.11.2
明治20年(1887年)東京生まれ、大学卒業後、父親の創業となる明治生命に大正5年に入社し、翌年大阪支店副町として赴任した。大阪では旅館に下宿し、そこでの経験に基づいて「大阪の宿」や長編小説「大阪」を書いた。
(所在地)中之島3-4(三井ガーデンホテル大阪東側緑地)
(撮影日)2017.8.1
市中から土佐堀川の橋を渡り、蔵屋敷が立ち並んでいたこの地にあった道標で、寛政11年(1799年)に建てられた。右方向へは梅田を経由して十三に向かう梅田道へ、又、尼崎に向かう尼崎道につながっていた。左方向は安治川を経由してやぐら(矢倉?)までつながっていた。
(所在地)中之島2(大江橋南詰西側)
(撮影日)2012.11.19
堂島川と土佐堀川に挟まれた中洲になっている中之島は、江戸時代初期に豪商の初代淀屋常安が開拓を始め、大阪湾とつながるこの地には各地の物産が集まり、諸藩の蔵屋敷もできた。明治期には、公的な施設が数多くできた。
(所在地)中之島2-1-45(日本銀行旧館南東角)
(撮影日)2009.7.11
明治維新前の郵便は飛脚などをおこなっていたが、明治4年(1871年)、政府は官営郵便を行うため、前島密に郵便事業実施を命じ、この地に郵便役所を開設して、東京との郵便業務を開始した。明治10年には「大阪郵便局」と改称して、北浜東3(現日本郵政)に移転し、近代郵便制度発祥地となった。