※臥牛(がぎゅう)表門西側
昭和14年(1939年)、ビフテキのスエヒロの経営者が翌年の創業30周年を記念して奉納した。別称、スエヒロの石牛像
※青銅牛(駐車場横)
駐車場脇にあり、天満宮で唯一、参拝者が撫でることができる牛像である。この像は昭和30年代に個人が奉納した。
※天保の石牛(住吉社横)
天保11年(1840年)に奉納された石牛像
※古石牛(白米社裏)
この石牛のことは不詳であるが、昆布商と刻まれた台石の上に置かれている。
元は、天満宮表参道の老松町(旧北区老松町3丁目)にあったが、平成2年(1990年)に天満宮境内に遷座した。神社の由来は古く、神功皇后が筑紫の帰路の際、暴風雨に遭遇し、老松町にあった巨松のおかげで難をさけることができたことに感謝し、貞観2年(860年)に神社を建立したのが始まりとされる。祭神は住吉大神と神功皇后である。祠の下に道標がある。
※道標
吉備社内にあり、毎年2月8日には裁縫上達や針に感謝の意を込めて針供養が社前で行われ、こんにゃくに折れた針や古くなった針を突き刺し供養する。この行事は吉備真備が唐から様々な文物や書物の他に刺繍裁縫の技術を持ち帰ったとされる故事による。2月8日は古くは事始めの日で、針仕事は休む日とされた。碑は大正15年(1926年)、和服と刺繍の関係者が建立した。
御祭神の吉備真備(きびのまきび)は奈良時代の学者で、政治家でもあった人で右大臣までも務めた。霊亀2年(716年)、遣唐留学生として唐に渡り、天平7年(735年)に帰朝した。その後、朝廷での活躍を疎まれ左遷されるが、天平勝宝3年(751年)、遣唐副使として再度、唐に渡り2年後、帰朝した。帰朝後の朝廷での活躍が評価され、称徳天皇に時代に右大臣となる。真備の死後、怨霊として神社で祀られ、当社の十二社でも祀られている。
御祭神は天照皇大神(あまてらすめおおかみ)・豊受皇大神(とようけすめおおかみ)の二神で、天照皇大神は伊勢神宮内宮(皇大神宮)でお祀りされており、皇室の祖先の神(皇祖神)とされる。豊受皇大神は伊勢神宮外宮(豊受大神宮)でお祀りされ、天照大神の食事を司る神で、衣食住や五穀の豊穣の守護神とされる。社は伊勢神宮と同様に神明造りである。
(所在地)天神橋1-16-12(相生楼玄関前)
(撮影日)2013.4.16
明治32年(1899年)、開業医の長男としてこの地で生まれ、明治34年に父親の肺結核療養のため東淀川区大道南に転居したが亡くなり、翌年、母親も肺結核で亡くなったため、祖父の川端家があった茨木市宿久庄に移り、18歳まで過ごした。
(所在地)菅原町1(堂島川沿いの河川公園)
(撮影日)2014.9.15
天満堀川と大川の合流点近くに架かっていた橋で、天保9年(1838年)に新たに開削される以前から橋があり、古い記録では「新橋」と記され、後に、「門樋橋」となり、「太平橋」と称された。堀川は昭和47年に埋め立てられたが、この橋は昭和60年まで残っていた。又、心中天網島の「堀川の橋」ともいわれる。
※公園にある4つの橋柱
※古い時代の橋柱
河川公園に残る橋柱よりも明らかに古い石製の橋柱で、いつのものかは不明である。公園の東隣の建物にある。
(所在地)菅原町1(天神橋北詰北西側)
(撮影日)2009.12.24
文禄3年(1594年)に大川に架けられた橋で、大阪天満宮が維持管理を行っていたが、寛永11年(1634年)、幕府管理の公儀橋になり、浪華三大橋と呼ばれた。明治18年(1885年)の淀川大洪水で流失後、明治21年に鋼鉄製のトラス橋となり、昭和9年に松屋町筋拡張に伴い三連アーチ橋の今の橋になった。この橋名飾板は架け替え前のトラス橋の橋門上にあったものである。
(所在地)西天満3-1 天神西町6 ※二カ所共高架下
慶長6年(1599年)に大阪城の守りとして開削が始まり、翌年に完成したのが天満堀川である。当初は大川の西側(菅原長)から扇町までの堀川で堀溜まりになっていた。天保9年(1838年)、堀溜まりの環境悪化により、南側(国分寺)まで延伸して再び大川に合流させ、水質を浄化させた。又、この辺りに造り酒屋が多くあったので、この橋名となったとされる。
※天神西町6
※西天満3-1
※お吉稲荷大明神
(所在地)東天満1-8-26
(撮影日)2009.4.6
慶長6年(1601年)、教如上人が天満本願寺の地に建立した寺で、天満御坊と称した。御坊の管理を佛照寺住職が行っていたため「佛照寺さん」とも呼ばれた。戦後、空襲で焼失した境内は都市計画により南北に分断され、北側は墓地として、南側の半分に本堂を昭和34年に再建し、残り半分は借地とした。