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(所在地)松ヶ枝町3-20
(撮影日)2012.10.3
文政9年(1826年)、天満で生まれ、26歳で結婚したが夫の事業の失敗で、易学で家族を養うことになる。明治16年(1883年)、神道の布教活動から非行少年のために我が国最初の感化院(自立支援施設)を空心町の自宅に設けた。翌年、この地に感化院を移転し、同時に授産院(社会的弱者の作業施設)を併設した。明治24年に66歳で雪枝が没し、2年後、施設は閉鎖された。
(所在地)松ヶ枝町2-41
古くにこの地には松の大木があり、天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱や明治42年の北の大木の時にも焼け残ったので、付近の住人が「火除けの霊松」として崇めた。松は大正9年に枯れたので、翌年に祠と霊松碑を建立して祀った。昭和20年の空襲で焼失したが、昭和25年に再建され、松乃木神社と称されるようになった。
※霊松碑
(所在地)扇町1-1(阪神高速扇町入口横)
(撮影日)2014.4.7
江戸時代の頃はこの辺りは堀川橋と呼ばれ、荒地で刑場になっていた。江戸初期、恋仲の二人に横恋慕した男が殺傷事件をこの地で起こし、女は助かるが恨みをもって自害した。その70年後に女の呪いのせいか、八重垣姫と吉五郎に同様の悲劇がおこり、鎮魂のため八重垣大明神として祀った。
(所在地)天満橋1-1-1
明治4年(1871年)に開業した造幣寮の正面玄関で、昭和2年(1927年)には老朽化により建物は取り壊されたが、正面玄関の石材は保存された。昭和10年、明治天皇記念館建設時に玄関として復元された。終戦後、桜宮公会堂となり、後には公共施設として利用され、今は民間の結婚式場となっている。
明治天皇は大阪へは8回行幸され、その内3回は造幣局に行幸された。最初は明治5年で、以後明治10年、31年であった。当時、大川で舟で下って来られ、川沿いにあった「みゆき橋」を渡られ、造幣局に入られた。「泉布観」は休憩をする行在所であった。
(撮影日)2013.4.16
明治4年(1871年)、大蔵省造幣寮(今の造幣局)の応接所として、外国人の設計で建てられた。命名は翌年に行幸された明治天皇によって「泉布観」とされ、「泉布」とは貨幣のことで「観」は館(やかた)のことである。大正6年(1917年)に大阪市に移管され、昭和31年(1956年)に国重要文化財となった。この建物は大阪府下で現存する最も古い洋風建築である。
※煉瓦小屋
(所在地)天満橋2-1(源八橋北西側)
(撮影日)2011.11.8
537年、宣化天皇の時代に朝鮮半島で新羅が任那(みまな)を侵略しようとしていたため、軍を派遣した。その時、戦後も百済に残った熊本の豪族が阿利斯登(ありしと)で、百済女性との間に日羅が生まれ、百済の高官となった。583年(敏達12年)、敏達天皇の詔で百済使節団らと来朝したが、百済の機密を漏らしたので暗殺された。同心町に日羅塚があったが、今はない。
(撮影日)2009.4.6
元禄の頃、渡しは存在していたといわれ、大川右岸の天満源八町は天満与力役宅があり、左岸の中野村は京街道に近く、渡しを東に越えると「中野の梅林」があり、両岸の堤は桜の名所で春頃は大いに賑わった。「源八」の名の由来は不詳で、川の中庭にあった砂州「源発」からと、人名からともいわれる。明治40年(1907年)に大阪市営の渡しとなり、昭和11年(1936年)、架橋により廃止となった。
(所在地)天満4-7(滝川公園内)
(撮影日)2009.9.10
天正13年(1585年)、真宗興正寺は天満本願寺とともに、この地の広大な敷地に多くの堂舎を建立した。江戸時代の頃は、産寺(うぶでら)として天満の人達に親しまれていた。天保8年(1839年)の大塩平八郎の乱で焼失したが、安政3年(1856年)に再建された。明治20年(1887年)から明治36年(1903年)までの16年間は関西法律学校の校舎となっていた。昭和20年に空襲で焼失し、旭区の赤川4丁目に大阪興正寺別院として移転した。