*江戸堀尋常小学校跡碑
明治5年(1872年)に津和野藩蔵屋敷跡
明治5年に建てられた学校で、昭和21年(1946年)西船場小学校に統合され、廃校となる。昭和24年此花乃井中学として開校した。
<所在地>江戸堀2-6-33(江戸堀フコク生命ビル前)
<撮影日>2009.8.16
幕末期に医学・儒学・西洋兵学などに通じていた人物で、弘化3年(1846年)大坂に来て適塾に入塾し、一時は長崎で学ぶか、嘉永2年(1849年)帰阪後26歳で適塾の塾頭となる。塾頭の時、この地にあった倉敷屋作衛門の屋敷に寄宿していた。翌年に父親の懇願により、長州に戻り村医となる。
<所在地>江戸堀1-4-23(橦木ビル前)
<撮影日>2012.6.14
西横堀川と江戸堀川が合流する地点の最初の橋で、昭和30年(1955年)に江戸堀川が埋め立てられるまで架かっていた橋である。
<所在地>江戸堀1-13-10(住友クラブ南側)
<撮影日>2012.6.15
明治11年(1878年)キリスト教の牧師であった沢山保羅(ぼうろ)が、25歳の時に、大阪府で最初の認可校として創設した女学校で、現在の梅花学園の前身である。碑は創立120年記念で建てられた。
<所在地>江戸堀1-10-31(金光教玉水記念館前)
江戸堀で私塾「青山社」を開塾していた頼春水の子供として、安永9年(1780年)にこの地で生まれた。翌、天明元年(1781年)父親が広島藩の儒学者となったため、広島に転居した。
<所在地>江戸堀1-21-28(西船場小学校南門)
江戸堀川に架かっていた江戸橋の橋柱で、昭和30年(1955年)に川が埋め立てられ、橋柱2基が残存している。1基には橋名板があり、もう1基には「大正14年12月改築」とある。橋はこの場所から北東約300mの所にあった。
<所在地>江戸堀1-21-28(西船場小学校北門)
江戸時代の頃「日本外史」を執筆した頼陽をはじめ、篠崎三島、篠崎小竹など多くの文人、学者が江戸堀周辺で生まれ、居住していた。昭和18年に西船場小学校と改称された東江小学校が昭和10年(1935年)創立50周年を記念して建てられた顕彰碑で、藤沢章の撰文である。