※境内の北東側にあるこの門をくぐると、すぐに霊符社があるところから、この門名になったと思われる。
※この門に入ってすぐに左側に戎社が祀られていたので「蛭子(戎)門」といわれる。戎社は境内北西側に新たに建てられた「蛭子遷殿」に移った。
※境内の北西にある門で、石鳥居の門である。門名については不詳で、察するに、大塩の乱で焼失した建物を建てるために大工の出入りや建築資材を搬入するための門であったため門名になったのではないかと察する。
※天満宮本殿の正面参道に建つ門であるので表門と称しており、又、境内の門として最も大きいので、大門ともいわれる。門の左右には、寺院の山門でみられる仁王像と同じ役割である警護のための隋見像がある。
鳳輦庫には、天神祭の時に菅原道真公の御神霊が乗る鳳輦が納められており、神輿庫には、鳳神輿と玉神輿が収められている。鳳神輿には相撲の神様といわれる野見宿彌(のみのすくね)の御霊が乗り、玉神輿には剛力で天岩戸を開けた手力雄命(てじからおうのみこと)の御霊が乗り、天神祭の渡御が行われる。二基の神輿は天保8年(1837年)、「大塩平八郎の乱」の火災により焼失したが、天保11年に御旅所があった江之子島東町の氏子達の寄進により復活し、今に伝わる。
※左が鳳輦庫(ほうれんこ)
※右が神輿庫
神馬は神様が乗る神聖な馬で、白馬が多い。古くは、祈願のため神社に馬を奉納していた。今では、白馬を飼育している神社は少なく、ほとんどの神社は石台座の金属製(主に銅製)か、絵馬になっている。天満宮の神馬は木製?のようである。
水の神である御井神(みいのかみ)を祀る祠で、御井神は木俣神(このまたのかみ・きのまたのかみ)の別称である。木俣神は大穴牟遅(おはなむぢ)神<大国主神の別名>の子とされている。祠名の由来は不詳。
平成23年(2011年)、大阪天満宮・地元商店街・関西大学が連携して「天満天神の水」の復活活動が始まり、平成26年(2014年)に復活した。御神水の取水口はガラスの祠になっており、製作はガラス作家の岡本覚氏が行った。この祠は枠以外はすべてガラス素材で、天井部分は「界面結晶化ガラス」という氏が開発した素材でできており、土台は御影石風で、リサイクルガラスを使用している。
江戸時代頃、大坂市中では生活用水を井戸水に頼っていたが、良い水に恵まれていなかった。ただ、「大坂四清水」といわれる場所の水は良水に恵まれ、その一カ所が当初の井戸水で、天満天神の水と呼ばれた。当時、中之島には各藩の蔵屋敷があり、藩主が滞在した時は、この水を汲んで飲料用に使用したといわれる。明治時代には天皇の大阪行幸の時にもこの水が献上された。
※大坂の四清水
「千日前の福井の水」・「道頓堀の秋田屋の水」・「聚楽町の愛宕の水」・「天満天神の水」