遥拝所はこの場所から遠く離れている神仏を参拝するために設けられた所で、多くの神社では伊勢神宮への遥拝のために設けられている。天満宮の遥拝所は南西方向(逆は北東)で、伊勢神宮への遥拝のためではなく、方角的に北東側は太宰府天満宮方向で、南西側は北野天満宮方向になっている。
道真が愛していた梅の樹の霊(御愛樹之霊)を祀る社である。社名の紅梅殿とは、京にあった道真の邸宅のことで、近くに白梅殿という邸宅もあった。有名な歌である「東風吹かば」を詠んだのは紅梅殿とされている。能の演目である「老松」は、老松と紅梅殿(紅梅の木)の精が現れて舞を舞うという話で、道真公の逸話が題材となっている。
御祭神の渡曾(わたらい)春彦とは「白太夫」のことで、道真の誕生の時に父親が安産祈願を頼んだ伊勢神宮の神官とされる人物である。昌泰4年(901年)、道真が左遷先の太宰府に向かう時も同行したとされる。
御祭神は大巳貴(おおなむち)大神は、大国主の数多い別名の一つで、多くの妻(女神)をもち、多くの子供をうけた。国造りの神として知られているが、縁結びの神としても信仰されている。この社は元は、渡辺橋北詰にあったが昭和22年(1947年)、社殿を造営して当社に遷座した。
御祭神の大山昨神(おおやまくいのかみ)は山の神で、農耕も司る神でもある。この神を主神とする神社は日吉大社と松尾大社が有名でもあるが、天満宮の松尾社は名前の通り松尾大社から勧請されたと思われる。
御祭神は第15代応神天皇で、八幡神として神霊化され、皇祖神ともされている。中世の武家社会で武神として崇敬されるようになり、全国に八幡信仰が広まり、現在でも多数の神社がある。
御祭神の吉備真備(きびのまきび)は奈良時代の学者で、政治家でもあった人で右大臣までも務めた。霊亀2年(716年)、遣唐留学生として唐に渡り、天平7年(735年)に帰朝した。その後、朝廷での活躍を疎まれ左遷されるが、天平勝宝3年(751年)、遣唐副使として再度、唐に渡り2年後、帰朝した。帰朝後の朝廷での活躍が評価され、称徳天皇に時代に右大臣となる。真備の死後、怨霊として神社で祀られ、当社の十二社でも祀られている。
この社は平安時代に権力闘争などにより菅原道真と同様に非業の死をとげ、怨霊となった人々や、祟り神とその祟りを鎮める神様をお祀りしている。吉備聖霊(きびのしょうりょう)・早良親王(さわらしんのう)・藤原夫人(藤原吉子)・伊豫親王・藤原寅嗣・橘逸勢(はやなり)・丈大夫の7人は憤死した人々で、火雷神・火産霊神は菅原道真を意識した祟り神である。埴山比売神・天吉葛神・川菜神は「日本書紀」に登場する神様で、荒れる火の神を鎮める力をもつとされる。
明暦2年(1656年)、天神祭本宮の前日に行われる鉾流神事で、神鉾が流れ着いた場所に戎神社があり、その神社を天満宮境内に移し、お祀りしたのが始まりとされる。御祭神の蛭子大神は本社相殿にお祀りされているが、1月10日のえびす祭の時のみ蛭子遷殿に遷座される。江戸時代頃は1月の他に5月・9月にも「えべっさん」が開かれていたが、明治以降1月のみとなった。平成19年(2007年)、60年ぶりに十日戎が「天満天神えびす祭」として復活した。
御祭神は底筒之男命(そこつつのお)・中筒之男命(なかつつのお)・上筒之男命(うわつつのお)の住吉三神である。「古事記」では、イザナギが亡くなった妻のイザナミを探しに黄泉の国に行くが、ケガしてしまい、ケガレを清めるために海で禊をした時に生まれ出てきた神様である。航海の無事や安全を祈願する時の神様である。