(所在地)大淀中3-1-23
(所在地)2009.8.21
創建は不詳であるが、6世紀に百済から渡米した王仁博士のゆかり地で、近くに王仁博士の石棺があったと伝わる。古くはこの地の氏神であった。天保6年(1835年)に社殿が造営され、昭和16年に改築されたが、戦災で焼失し、昭和47年に再建。
※熊野神社
※社殿復興記念碑
碑文には神社縁起と王仁博士の墓がこの辺りにあったことを記している。
※記念碑
昭和16年に建立されたこの碑には神社の縁起のことが記されている。
(所在地)中津2-8(中津公園内)
(撮影日)2009.8.21
明治45年(1912年)に中津町で生まれ、地元中学、高校を卒業後、京都大学文学部に進学した。在学中に演劇の作家や演出を手掛け、卒業後、妻と上京し、放送劇作家などをしていた。昭和15年に文学座の劇作家として活躍し、代表作の「女の一生」の一節が碑に刻んである。昭和21年に34歳で病死。
(所在地)中津2-5-4(光徳寺)
(撮影日)2016.3.17
大阪を代表する洋画家で、明治31年(1898年)に光徳寺住職の次男として生まれ、旧制北野中学を卒業後、大正7年(1918年)に東京美術学校西洋画科に入学して藤島武二に師事した。大正12年(1923年)に卒業し、翌年にパリに滞在するが、翌年現地で病気になり病死した。享年30歳。墓は東京都千代田区心法寺にもある。墓標の「倶会一処」は阿弥陀経の教えの一つ。
※生誕地の碑
※祐三の墓
(所在地)中津1-11-11(コンビニ前)
(撮影日)2014.10.11
大阪と能勢を結んでいた能勢街道の起点となっていたのが中津の萩の橋あたりで、能勢街道は物流街道として、又、街道筋にあった寺社の参詣道として人の往来が盛んであった。萩の橋は街道を横切る水路に架かっていた橋で、橋名は近くの豊崎にあった萩の花で有名な東光院の通称「萩の寺」から付けたとされる。又、東光院は電車敷設のため大正3年に豊中市に移転した。
(所在地)豊崎6-6-4
難波長柄豊碕宮が遷都となり、宮跡となったこの地は八本松と呼ばれていたが、正歴年間(990年~995年)に藤原重治がこの地を与えられ祠を建て孝徳天皇をお祀りしたのが創建とされる神社である。明治5年(1872年)村社となり、明治41年(1908年)長柄の村社八幡神社を合祀。足立家の東照宮社を境内に合祀した。明治39年(1964年)社殿が再建された。
※社殿
※鹿島神社
※東照宮・厳島神社
※豊崎えびす
※稲荷神社
※孝徳天皇沓脱石
(所在地)豊崎2-3-23
(撮影日)2012.9.19
天平19年(747年)聖武天皇の勅願により行基が創建した寺で、無本寺と称していたが、天治元年(1124年)僧良忍が復興させ、融通念仏寺となったが荒廃し、建永元年(1206年)法然上人が再興して、寺名を源光寺と改めて浄土宗の寺となった。
(所在地)豊崎1-2
(撮影日)2012.10.3
南浜墓地入口にある地蔵尊で、明治期に天満の秋田羅似(らい)という住人が嫡男を授かるために神仏に祈願していたが、授からず、行者から「南浜墓地の南浜地蔵尊に祈願すれば願いが叶う」といわれ祈願sたら授かったので、感謝の意として明治24年に地蔵尊と地蔵堂を建立したのが始まりとされている。
(所在地)長柄西2-12-5(光明寺)
松野家は代々田安家の勘定方を務める家で、登十郎も幕府の勘定方として努めていたが、文政3年(1820年)に田安家の領地であった南長柄の代官に任じられた。着任早々から難題が多くあり、年貢の増額による農民の不満や、その後の天候不順や天災による凶作が続き、農民の困窮を見かねた登十郎は田安家に対して農民救済を願い出るが一切認められず、文政8年3月17日に年貢減免の上申書を記し、屋敷で割腹した。享年48歳。この一件で松野家は廃絶となったが、年貢は三年間免除され、農民は救済された。
(所在地)長柄中2-5地先
(撮影日)2010.5.8
鶯塚の由来には諸説があり、645年に大化の改新が断行され、孝徳天皇が都を飛鳥から難波長柄豊碕宮に遷都したのがこの地で、後に、天皇家に深い人の墓が築かれ鶯凌と称されていたが、陵は無くなり塚が残り鶯塚となったという説と、奈良時代末頃に長柄長者の美しい娘が鶯を可愛がっていたが、娘は病で亡くなり、鶯もすぐに死んだので、長者が不憫に思い一緒に埋葬したので鶯塚と称するようになったという説もある。
(所在地)長柄中2-4-25(北霊園管理事務所南側)
(撮影日)2013.3.13
大阪で社会事業などをおこなった侠客で、文政13年(1830年)に堂島の質屋明石屋の長男として生まれ、幼名は万吉といった。9歳の時に父親が失踪し家族の生活のために賭場荒らしを始め、15歳で親分となり、堂島の米相場に関わるようになる。文久3年(1863年)、播州小野藩一柳家から大阪の警護を要請され、受託して名を「小林佐兵衛」と改めた。明治期になり、府知事の要請で消防隊を組織したり、火事で生活困窮者になった人を助ける「お祓い所」を運営した。又、児童支援施設の感化院に協力し、自らも弱者救済のため「小林授産所」を創設した。大正6年(1917年)に89歳で亡くなった。