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御祭神は天照皇大神(あまてらすめおおかみ)・豊受皇大神(とようけすめおおかみ)の二神で、天照皇大神は伊勢神宮内宮(皇大神宮)でお祀りされており、皇室の祖先の神(皇祖神)とされる。豊受皇大神は伊勢神宮外宮(豊受大神宮)でお祀りされ、天照大神の食事を司る神で、衣食住や五穀の豊穣の守護神とされる。社は伊勢神宮と同様に神明造りである。
この社は平安時代に権力闘争などにより菅原道真と同様に非業の死をとげ、怨霊となった人々や、祟り神とその祟りを鎮める神様をお祀りしている。吉備聖霊(きびのしょうりょう)・早良親王(さわらしんのう)・藤原夫人(藤原吉子)・伊豫親王・藤原寅嗣・橘逸勢(はやなり)・丈大夫の7人は憤死した人々で、火雷神・火産霊神は菅原道真を意識した祟り神である。埴山比売神・天吉葛神・川菜神は「日本書紀」に登場する神様で、荒れる火の神を鎮める力をもつとされる。
明暦2年(1656年)、天神祭本宮の前日に行われる鉾流神事で、神鉾が流れ着いた場所に戎神社があり、その神社を天満宮境内に移し、お祀りしたのが始まりとされる。御祭神の蛭子大神は本社相殿にお祀りされているが、1月10日のえびす祭の時のみ蛭子遷殿に遷座される。江戸時代頃は1月の他に5月・9月にも「えべっさん」が開かれていたが、明治以降1月のみとなった。平成19年(2007年)、60年ぶりに十日戎が「天満天神えびす祭」として復活した。
御祭神は底筒之男命(そこつつのお)・中筒之男命(なかつつのお)・上筒之男命(うわつつのお)の住吉三神である。「古事記」では、イザナギが亡くなった妻のイザナミを探しに黄泉の国に行くが、ケガしてしまい、ケガレを清めるために海で禊をした時に生まれ出てきた神様である。航海の無事や安全を祈願する時の神様である。
御祭神は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)で、「古事記」では高天の原に最初に出現し、天地を創造した神様とされ、生命の根源を司る神である。節分の日には長寿祈願の「鎮魂祭」という神事が行われる。拝殿前の石鳥居は大正13年に建立された。
本殿から渡り廊下を渡るとすぐにあるのが神楽殿で、明治37年(1904年)の建物である。この建物も参集殿・梅花殿と同様に国登録有形文化財の指定を受けている。
参集殿東側の建物で、外観は平安期の寝殿造りになっており、内部は書院造りになっている。用材は明治42年(1909年)の伊勢神宮式年遷宮時の用材が下賜されて使われ、昭和2年(1927年)、貴賓殿として使用されている。完成当時の襖絵は津端道彦や上田耕中の筆で、実物は宝物庫に複製は天満宮開館にある。
本殿東側の書院造りの建物で、明治43年(1910年)、天満宮保勝会が建築し、天満宮に献納した。建物内部は書院造りの意匠を守っており、大広間は普段は畳敷きになっているが、畳をめくると板敷の能舞台になる。平成11年に国登録有形文化財に指定された。毎年2月中旬から3月上旬にかけて参集殿で盆梅などの展示が行われる。
創始は不詳ながら、文政7年(1824年)刊の「神仏霊験記図会」に記載されており、それ以前から天満宮の境内にあった稲荷社である。
※鳥居
※狐・天狗の爪研ぎ石
勾玉や菅玉を研いだとされる石で、表面には痕跡が残っている。
※稲荷奥宮
昭和63年に伏見稲荷大社から分祀され、白米稲荷社の奥宮となった。
白雉元年(650年)、孝徳天皇が難波長柄豊崎宮に遷都の際、悪霊を防ぐため、宮殿の西北の地に陰陽道の八将神の一神である大将軍社を創始した。白雉5年(654年)、飛鳥板蓋宮に遷都後も、地元民によって祀られた。昌泰4年(901年)、菅原道真が左遷され、太宰府に向かう途中に参詣したと伝わる。天暦3年(949年)、社前で七本の松が突如現れ、金色に輝いたという事を聞かれた村上天皇は、勅命で道真を祀るための社の創始したのが始まりとされる。