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(所在地)天満4-7(滝川公園内)
(撮影日)2009.9.10
江戸時代、大阪町奉行所支配のもとに、大川以北の天満組、以南の北組・南組の三組に区分され「大坂三郷」と呼ばれていた。各組にはある程度の自治が認められており、町人から惣年寄が運ばれ、月番で惣会所に詰めていた。実務は町年寄や惣代が町奉行所の管理のもとに行っていた。実際の惣会所は道を隔てた西北の角にあった。
(所在地)天満3(南天満公園内)
(撮影日)2010.3.22
淀川の水量が増えると、寝屋川・鯰江川に逆流して水害を起こしていたので、明治6年(1873年)にオランダから河川改修の技術者3名を呼び寄せた。翌年には工事は開始され、三川の合流近くの将棊島に、木の枝束に石を詰め川底に沈めるオランダ式の祖朶沈床のやり方で水制を行った。この工事により水の勢いが弱くなり、護岸も守られた。
江戸時代初期に淀川で京都伏見と大坂を往来していた船を三十石舟と呼び、又は、過書舟とも呼んだ。主に、旅客の舟で、約30名が乗れ、船頭4~6人ぐらいで舟唄を歌い淀川を往来していた。舟は青物市場の対岸にある八軒家の船着場に着いていた。
江戸時代に開設された天満青物市場から、木津村や難波村に青物が運ばれる様子が子守歌の歌詞となっている。子守歌は昭和初期に市場が移転するまでは、この地で子守娘が歌っていたと思われ、今でも大阪を代表する子守歌である。
堂島米市場・雑喉場魚市場と並んで、天満青物市場は三大市場の一つで、江戸時代には大阪は「天下の台所」と称された。市場の始まりは石山本願寺門前で、後に京橋北詰付近に移り、その後、承応2年(1653年)にこの地に移り、野菜や果物を扱う市場として市内の相場を左右するほど発展した。昭和6年(1931年)、市場は中央卸売市場に吸収され、一部の店舗は残っていたが、昭和20年の戦災で廃絶した。
(所在地)天満1-5(天満橋北東側)
(撮影日)2009.4.6
大川に架かるこの橋は豊臣の頃に最初に架けられ、明治までに何度も架け替えられたが、すべて木橋であった。明治11年(1878年)に架け替えられた時も木橋で、明治18年(1885年)の淀川大洪水で流失した。明治21年、ドイツ製の鉄橋となり、橋名板は橋門上に設置されていたもので、鋳鉄でできている。
(所在地)天満1(川崎橋北詰)
(撮影日)2011.12.16
江戸時代、川崎には幕府の蔵や諸藩の蔵屋敷などがあり、大川から船で物資の搬入を行っていた。元禄年間には、城の京橋口に近い対岸の備前島(現・網島町)とは船で結ばれていた。明治10年(1877年)、私設の木橋が架けられたが、明治18年の大洪水で流失し、渡舟が復活したが、昭和20年に廃止した。
(所在地)天満1-24-15(滝川小学校西門前)
元和2年(1616年)に徳川家康が亡くなり、天皇から「東照大権現」の号を賜ったことから、二代将軍秀忠は各地に東照宮を建立するように命じた。翌年、大坂城主になった家康の孫の松平忠明が天満川崎に東照宮を建立した。参拝は限定された人しか許さず、民衆は家康の命日に行う権現まつりの期間のみ許された。天保8年(1837年)、大塩の乱で焼失し、その後再建された。慶応4年(1868年)、御神体は移され、明治6年(1873年)、廃絶となった。
(所在地)天満1-25(造幣局正門前国道1号線沿い)
天保8年(1837年)、大塩の乱の始まりは洗心洞からの大砲の砲撃からで、一発目は向かいの与力朝岡助之丞の役宅に向け撃たれ、裏庭の樹齢二百年の槐の木に当たり、裂けてしまった。その後も木は生き続けたが、昭和59年(1984年)、車の排ガスの影響により枯死してしまい伐採された。平成13年(2001年)に碑の横に槐の木が植えられた。
(所在地)天満1-25(造幣局官舎内)
(撮影日)2013.3.30
江戸後期、大阪東町奉行組与力で陽明学者であった大塩平八郎が自宅で開いていた私塾で、文政8年(1825年)、大塩32歳の時には、主に奉行所役人や豪農など塾生や門弟が約60~70名いたとされる。天保8年(1837年)、天保の大飢餓で疲弊した民衆を救済するため、門弟達と蜂起し、洗心洞の建物に火を放ち、豪商の蔵から米などを強奪して民衆に分け与えた。