« 2019年4 月 | メイン | 2019年9 月 »
※関西空港の開港記念行事として、オーストラリア・ブリスベンで天神祭が行われたのを記念して碑が建立された。ブリスベンにも同じ碑がある。
※さざれ石とは小石が長い年月をかけて岩の塊のようになった石のことで、国家「君が代」の歌詞にもなっている。歌詞の由来となっているさざれ石は岐阜県揖斐川町春日村の石で、この石も春日村の石である。この石は平成27年に奉納された。
※宝暦年間(1751年~1764年)に長崎の商人であった播磨屋清兵衛がガラス製造方法を長崎で学び、大阪で始めたとされる。明治期にはガラス産業が盛んとなり、与力町界隈に多くのガラス工場ができたが、時流にかてず衰退してゆき、界隈のガラス工場が一部を残してなくなった。この碑はガラス組合が昭和54年に建立した。
※蛭子門の前にあるえびす様の石像で、天満宮のえびす様に御神酒をお供えしたら、えびす様の顔が赤くなったという故事にちなんで作られた。
※明治35年(1902年)、参集殿の屋根瓦が葺かれた時の鬼瓦で、明治43年(1910年)、建物が新調された時もこの鬼瓦は使われた。昭和52年、道真公御神退1075年の時に屋根を銅板に葺き替えたため、下され、昭和62年にこの場所に置かれるようになった。
※江戸時代、日本で算が盛んとなり、和算と呼ばれ、和算の問題や解き方などを研究する和算学者も多数現れ、和流を形成するようになった。宅間流もその一派で宅間能清(よしきよ)を祖とし、弟子の鎌田俊清の「宅間流円理」が有名である。この算額は文化5年(1808年)に奉納された額であったが、平成10年(1998年)に新調し、神楽殿に奉納された。
※さし石よりも大きく、重たい石のことで、この刻字がある力石は4個しかないとされる。刻字にある「三ノ宮卯之助」は文化4年(1807年)、埼玉越谷で生まれた。江戸で力持ちとして有名になり、力持ちも一座を結成し、天保11年(1840年)に大阪天満宮での興行の時に足指でこの石を持ち上げた。この時、卯之助は34歳で、この石の重さは推定で600kg以上ではないかといわれる。
※力試しのために使われた石で、江戸時代から明治期にかけて神社の祭などの時におこなわれた。
※学問の神様として信仰されてきた道真公は書道の神としており、書道の上達を祈願して、使い古した筆を供養するために建てられたのが筆塚である。この碑は明治15年(1882年)に建立された。
※富山の薬売りは300年以上前の江戸時代中頃から始まった。一般家庭や商家に薬を置き、約半年後くらいに訪問して使用した分の代金をもらうという商いで「先用後利」の商法と呼ばれた。この碑文は富山の薬売りの家訓が書かれてあり、慶応2年(1866年)に建立された。
楽すれば らくがわざして楽ならず らくをせぬ身(楽)は はるか楽楽
※この碑文は「楽(らく)」が七つあるので「七楽の教え」といわれる。