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※江戸時代に迷子になった子供を探すためにこの石に迷子の名前・年齢などを紙に書き貼り付け、反対側には迷子の事を知ってる人が紙を貼り付けた。しるべ石は神社の境内や人通りの多い橋などにあった。別称で奇縁氷人石・月下氷人石などと呼ばれる。この石は明治10年建立、明治21年移納とある。
※瓢箪形にこの石は、今橋築地(今の北浜1丁目あたり)の料理旅館「瓢箪屋」の三代目帯屋源兵衛が奉納した石である。この人は瓢箪が好きで、店の用品などもすべて瓢箪形や柄にし、瓢箪物も収集していた。
※石の横にある源兵衛の短歌
※短歌の号は瓢遊神垣の松にかかげてなりひさご久しく世にてらすともし火 瓢遊
※本殿の両側にある石灯篭で、弘化3年(1846年)の銘である。基壇にある「さこむ」と読める文字は「ざこば」のことで、雑喉場の魚市場からの寄進の灯篭である。
※本殿前のこの狛犬は、元は青銅製の阿吽の狛犬であったが、戦時中に金属供出となったため、高麗橋の商店主が店先に置いていた阿阿形の狛犬を寄贈した。
※頼山陽は大阪で生まれ、江戸時代後期に活躍した歴史家・儒学者・漢詩人である。とくに歴史書の「日本外史」が有名である。この灯篭は嘉永6年(1852年)に願い主(殿村氏)の依頼で頼山陽が「常夜燈」の文字を書いた。
※貫名海屋は江戸時代後期の文人画家で、書にもすぐれ、幕末の三筆と呼ばれた。徳島藩士の次男として生まれた海屋は儒学を学び、高野山で勉学に励んだ。高野山から下山後、懐徳塾に入塾し、その後、塾頭になった。晩年は書家としての名声が上がり、この灯篭の文字も海屋晩年の筆で、数え歳87歳のものである。
※南画家の田能村直入が、明治10年に皇族の久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)から直筆の「画神」を賜り、その文字を石碑にした。田能村直入は10歳で田能村竹田の養子となり、南画家として大阪で活躍した。直入は南画家の育成に努め、大阪の堺で画塾を開いたり、京都で京都画学校を設立した。同様の石碑は大分の竹田や岡山の倉敷にもある。
※平安時代後期、漢詩人の藤原敦基・敦光の兄弟が天満宮を参拝した時に詠んだ漢詩が碑文に刻まれている。
南洲近藤の本名は近藤元粋(もときよ)で、号を南洲と名乗っていた。嘉永3年(1850年)に伊予松山で近藤名州の三男として生まれ、明治10年(1877年)、大阪で漢学者として私塾を開き、子弟を教育した。漢詩人としても活躍し「風騒吟社」などを主宰し、学者としても多数の著書を書いた。大正11年(1922年)、南州の没後、所蔵していた膨大な蔵書(約2万冊)は天満宮文庫に寄進された。この碑は大正12年に建てられた。
平安時代にできた思想の言葉で、日本的な精神である「大和魂」と中国の知識である「漢才」の両者を合わせることでできた言葉である。この言葉は菅原道真が記したとされる「菅家遺誠」の中の語であるが、後世の研究で本は菅原道真が記したものではないとされている。この思想は幕末から明治にかけて医学者の影響で広まり、各地の天満宮に建てられた。この碑は嘉永5年(1852年)に建てられ、碑文の揮亳は菅原家後裔の東坊城聰長である。