※さし石よりも大きく、重たい石のことで、この刻字がある力石は4個しかないとされる。刻字にある「三ノ宮卯之助」は文化4年(1807年)、埼玉越谷で生まれた。江戸で力持ちとして有名になり、力持ちも一座を結成し、天保11年(1840年)に大阪天満宮での興行の時に足指でこの石を持ち上げた。この時、卯之助は34歳で、この石の重さは推定で600kg以上ではないかといわれる。
※力試しのために使われた石で、江戸時代から明治期にかけて神社の祭などの時におこなわれた。
※学問の神様として信仰されてきた道真公は書道の神としており、書道の上達を祈願して、使い古した筆を供養するために建てられたのが筆塚である。この碑は明治15年(1882年)に建立された。
※富山の薬売りは300年以上前の江戸時代中頃から始まった。一般家庭や商家に薬を置き、約半年後くらいに訪問して使用した分の代金をもらうという商いで「先用後利」の商法と呼ばれた。この碑文は富山の薬売りの家訓が書かれてあり、慶応2年(1866年)に建立された。
楽すれば らくがわざして楽ならず らくをせぬ身(楽)は はるか楽楽
※この碑文は「楽(らく)」が七つあるので「七楽の教え」といわれる。
※江戸時代に迷子になった子供を探すためにこの石に迷子の名前・年齢などを紙に書き貼り付け、反対側には迷子の事を知ってる人が紙を貼り付けた。しるべ石は神社の境内や人通りの多い橋などにあった。別称で奇縁氷人石・月下氷人石などと呼ばれる。この石は明治10年建立、明治21年移納とある。
※瓢箪形にこの石は、今橋築地(今の北浜1丁目あたり)の料理旅館「瓢箪屋」の三代目帯屋源兵衛が奉納した石である。この人は瓢箪が好きで、店の用品などもすべて瓢箪形や柄にし、瓢箪物も収集していた。
※石の横にある源兵衛の短歌
※短歌の号は瓢遊神垣の松にかかげてなりひさご久しく世にてらすともし火 瓢遊
※本殿の両側にある石灯篭で、弘化3年(1846年)の銘である。基壇にある「さこむ」と読める文字は「ざこば」のことで、雑喉場の魚市場からの寄進の灯篭である。
※本殿前のこの狛犬は、元は青銅製の阿吽の狛犬であったが、戦時中に金属供出となったため、高麗橋の商店主が店先に置いていた阿阿形の狛犬を寄贈した。
※頼山陽は大阪で生まれ、江戸時代後期に活躍した歴史家・儒学者・漢詩人である。とくに歴史書の「日本外史」が有名である。この灯篭は嘉永6年(1852年)に願い主(殿村氏)の依頼で頼山陽が「常夜燈」の文字を書いた。
※貫名海屋は江戸時代後期の文人画家で、書にもすぐれ、幕末の三筆と呼ばれた。徳島藩士の次男として生まれた海屋は儒学を学び、高野山で勉学に励んだ。高野山から下山後、懐徳塾に入塾し、その後、塾頭になった。晩年は書家としての名声が上がり、この灯篭の文字も海屋晩年の筆で、数え歳87歳のものである。